1. はじめに †2018年は大規模な自然災害や天候不順が続き,インフラの脆弱性を知らしめられました.また世界の国家間の関係のあり方が大きく変わることが見えてきました.多くの成人は日本の平成30年の祭りの後のむなしさの中で過ごし,次の祭りを待つ淡い夢を持って,将来に備えることなく過去のモデルで過ごして居る間に,ローカルな祭りでは無くグローバルな祭りに参加できない人々となってしまいました.これでは国が縮むと焦燥感を持った国が笛吹けど踊らない国民に我慢できず,囲い込みをやっても動かず,ついに官制の自らの制度やぶりという改革に対して、従わない者に罰則を与えるまでにエスカレートしています.政府の望み通りに働かざる者喰うべからずとまで思わしてしまう言動の応酬は,言う者も聞く者も貧しい精神状態の隘路にあるように感じます.改革を自ら唱えて他を排除する論理矛盾は,全くのナンセンスです.2019年もまた大きな分岐点だと感じています. ネットワークは、繋がってしまえば世界の自由なあるいは故意の情報流れを国や一企業が全くコントロールできないことも知り,それ自らが判断できない人の動きまで作り出してしまっています.人のコミュニティを生命体にたとえれば,神経だけが過敏になり,その頭でっかちなありかたについて行けない身体の器官が,振動したり,機能停止したり,はたまた意図とは異なる動きをしはじめています.結果的に統合という夢が、分断という多様性で置き換えられようとするしているように感じます. 我々研究者は,よく浮き世離れして仙人の様な生活をしていると思われています.確かに学生の時に見かけた近所の先生方はそのような方が多かったと記憶しています.今はそれを、産業発展に役立たないというレッテルを貼り,果ては罪であるかのような世の言い振りへと導いていっています.ファンドの審査会でもそのような言葉が多く振り回されており,このままで良いとはとても思えない状況です.優位な立場の者が、自分が対応する多くの人の回りに敵を作らせ,それに対して自らを有利に振る舞うことへの誘導は,これまでもこの国が何度も経験してきた道ではないでしょうか.分割統治による意識の分断こそ,相手の思うつぼの手法だと気付く必要があります. (全く,独占企業野データや出版社の電子ジャーナルを巡る手法と同じであることを敢えて言っておきます.恐怖と報酬,飴と鞭,あらゆる古典的手段が,このネット社会で新たに現れてしまいました.) そんな中,次の20年後を託すのがこれから研究を始められる皆さんです.その皆さんの助けになることを期待して,以下を書きます. 2.研究課題へのアプローチ †研究室を選ぶということは,興味ある研究課題に自らを近づけることです.大学生活3年間の間に,入学の時に抱いた夢や研究,その間に新たに学んで見出した課題の近くに自分を置くということです.多くの学生の方は,自分が優れている科目,できることからテーマを選びたいと思われる様です.しかしながら,京都大学で学んだ人が,将来その狭いテーマの中だけで研究・仕事をすることを求められている,あるいは雇用されるということはほとんどありません.また,研究テーマから直接仕事に繋がることはありますが,それは本人が希望した場合です.求められるのは,能力の幅の広さ,懐の広さ・深さ,そして多様なものを認める能力です. 国内の企業内では技術部署を移動することは常であり,また職種も替わっていきます.国外では技術職という意味では同じですが,企業を替わってより良い条件を獲得することは当たり前です.それらの職の変化の中で,より幅広い視点が求められたとき,特定のテーマ周辺だけの知識では太刀打ちできません.日本の企業では,博士の学位がこれまでほとんど尊重されてきませんでした.企業内の日本人だけの仲間の人事構成,あるいは年功序列のルールの維持のために,能力評価を避けて来た結果です.未だに多くの企業がその対応ができずに居ます.単一性に最適化され,突き進むときの成功モデルが忘れられないからです.先行した技術をフォローするという答えが分かっているものに対してはこの方法は強く,オリジナルより効率的なモデルで市場を抑えることができました.日本が1990年代まで続けて来た企業活動でした.一方で,企業活動で論文博士という戦後システムの救済策を延命させ,博士は企業でも取れるという論で,就職活動において学生に勝手な論理を吹き込み,彼らを吸収することまでやってきました.果たして,そのモデルが新しい変化の時期に全く対応できず,薄っぺらな作業技術を得意とした企業はその時代を終ようとしています.今更企業では学位に繋がる研究をする余力はありません.その結果幸か不幸か,学位は各人のキャリアの中で自らを高めるために取得し,それにより新しい職業のステップを踏むために取得するものだということが,漸く日本でも理解されるようになって来ています. 同時に博士課程の教育のあり方も変わりつつあります.既に一人の教授が,免許皆伝を与えるような教育の時代は終わりました.複数の教員がいろいろな議論をしながらその学生の研究を奨励します.基本的に研究テーマを博士課程の学生に渡した時点で,指導教授やスタッフがそのテーマに直接関与することはありません.これまで指導者であった教授は,今は共同研究者に替わっています.複数の指導者の様々な価値観に触れながら,自らの論を形成するプロセスが今の博士課程です.合わせて研究の幅を拡げる講義の受講も求められます.常に,自分の研究を客観視する能力をつけることが必須となっています.これをコースワークと言います.コースワークには,研究実施,執筆指導,発表指導などの研究技術も含みますが,研究が広がる領域の論理,研究公正,そして早くからの研究の社会へのマイグレーションを含みます.一方で,研究者教育も同時並行して行われます.何も無いところに道をつくっていく道具をまず確立し,そしてその道具を持って踏み出し,試し,さらに改良して試していく,この課程を具体的に指導していきます.この様な基礎的なトレーニング無くいきなりヘリコプターで草原の中に降り立って,猛獣を捕まえなさいと指示するような研究指導などあり得ないのです.それができるのは,既に自分の道具を持ったPDや若い教員なのです.自分がそこに至っていないにも関わらず,道具を持った幻想や,道を描いた幻想を持って,いきなり放り出されるような指導,またそれを求める要求も間違っていることは明らかです.これまでの多くの指導はそれに類することを平気でやっていたと思います. さて,学部学生の皆さんは研究の初学者です.まずは研究へのステップを順に踏まなければなりません.要領の良い研究方法など新しい分野では存在しません.ありとあらゆることを考え,調べ,試みて,その中であがきながら可能性が見いだせるかどうかを調べることを抜きに,新しい分野は立ち上がりません.自分が何を知らないかを知り,そして自分が弱いところを補強することが,最初にすべきことです.それを指導教員と一緒に楽しむことです.これで正しいですか,次は何をしたらよいのですか,と聞いてくる学生の方は,まだ学習から親離れしていないのです.その時点でオリジナルとか最先端ということを求めるべくもありません. 自分の研究分野が人気のある分野(インパクトが高い分野)であることを誇りたい人もいます.気持ちはわかります.器に居ることに頼ることは重要かもしれません.しかしながら,我々の研究室はそういう器ではありません.一人一人が自らの器を完成させていく過程を重要視して,独り立ちすることを大切にしています.実験,理論,数値計算は全て演習です.自分の推論が正しいことをこれらの少なくとも二つの手法での結果の一致を説明するよう,自ら考えることを大切にしています.何故そうなるのかを理解すること,あるいはなぜ実現する必要があるのかを考えることです.考え続けて下さい.それが求めることです. 3.どう研究するか †学生さんが時々,「これから何が面白いですか?」という他愛の無い質問をされます.その多くは,脚光を浴びる分野は何ですかというケースが多いようです.今の自分ならこう答えます.「これから面白い分野は,自分で作り出します.」と.確かに興味深い分野は沢山あります.しかし,面白くはありません.理解できた爽快感はありますので勉強はしますが,研究はしません.それは自分のタンスとして貯めておきます. 自分が設定した研究課題を人に説明すると,必ずそれに対する否定的な反応があります.それに対して,
人の否定にはなんらかの意味があります.自分でも同じ方法で否定的な結果が出たとき,否定の条件が定まって来たと理解すれば良いのです,何度やってもダメなときはそれらのデータを集積して,次の手法との比較に備えます.ほとんどバカと言われそうなほど楽観的に挑むことが大切です.その自由さが新しい考え方を生み出します.毎日毎晩考え続けたとき,「あ」とひらめくことが始まります. 時々学生さんが,この結果が201X年の論文で書かれていましたと泣きそうに言うことがあります.へーって思いませんか? その論文を読まずに,自らその論文と同じ結果に辿り着いたことの面白さ,それが忘れられています.自分たちの環境と力で,201X年まで辿り伝いことは素晴らしいことです.そこでは,本当に全ての条件が同じなのか,設定が同じなのかを確認しておく必要があります.その上で,何にアプローチするかが問われます. 最初の質問に戻ります.何が面白いか?それは,自分の推論が正しいこと,正しくないことをありとあらゆる手段で検討し,そして常識を覆してパラダイムシフトを起こす研究,それが一番面白いのです.研究者が集まっている研究課題で仕事をするなら10年以内にそのなかで疲弊することを覚悟して下さい.世界の若手の研究者の多くは最初の5年で消えて行っています.なぜなら,そこには人が集まっているからです. 研究者であれば,ほぼ10年ごとに大きな転機が来ます.その転機は研究課題を替えて,自らのあり方を変えるチャンスです.そのチャンスを使って,新しい道を作り出すその過程が面白いのであって,単発のテーマや結果が面白いのでは無いということを知っておいて下さい. 就職の面接で,自分のテーマを説明したら否定された,何の役に立つのかと言われたと泣きそうに帰ってくる学生が居ます.それは当たり前ですが,審査や面接のテクニックです.その時に自分の夢をきちんと語れることが本当に大切なことなのです. 今研究室で走らせている研究課題,それは私が研究者になってから,人が否定こそすれ,だれも支援をしてくれるようなことが無かったテーマです.身内の研究者からも否定され,企業からは総スカンを買うような研究課題でした.そんな研究課題をおおらかに遂行できる環境を維持してもらい,そして続けていることが私の研究者としての誇りです. こんな夢があります! と語ってくれることを楽しみにしています.夢は誰にも破れませんし,真似はできません.そのモチベーションとイメージを大切にして下さい.但し,そこに辿り着くのがいつになるかは人によってことなります. 4.研究結果を残すこと:学術論文へ †研究を進めた結果,皆さんが残すことが二つあります.それは研究論文によるモデル・アルゴリズムの記述とそれによって得られたデータです.それらの残し方は,次の研究者への道標として,世の中に新しい手法や結果を問う論文誌原著論文という形となります. 今の世の中は,多くの研究者やっただけ学術論文(論文誌原著論文)を書いているため,世の中に論文が溢れています.遣ってみました論文です.そんなものを真面目に読む必要やありません.もうどこで誰が何をやっているかを,直接に知っていることからほど遠い状況になります.論文は必要なものを読む.基礎を読む.そして考える.これが研究です.論文の成立の要件は,1.課題の新規性,2.手法・結果の有用性,3.結果の妥当性 と言われます.しかしそれも一律ではありません.人が引用する論文が素晴らしい論文という評価,人が引用する論文誌に掲載されるのが優れているという評価,そして直ぐに使える結果が素晴らしいという評価,だれの目から見てもこんなものが学問の評価では無いということが分かります.ではなぜそれを選ぶのかというと,所詮研究者は人だからです.人からちゃほやされたい,人から評価されたい,良いポジションに着きたい.....そういった弱みあるいは強みを満足することからこの評価が一人歩きすることになりました.論文誌は競ってその評価を上げるために,ありとあらゆる最適化をします.その結果,商品価値を上げることに躍起です.これによって誰もが知る論文誌の価格高騰の理由の一つを担っています.要するに,研究者が自ら自分の首を締めることに手を染め,その中で自沈し,他の実態を知らない者がその外部評価を鵜呑みにして用いるという悪循環に入ってしまいました.この点については多くの論説をしていますので,別の講演録などを参考にして下さい. 新規性は重要です.論文ではイントロダクションの範囲でのみ考えられますが,他の観点からは全く新規性はない可能性もあります.しかし,それはパラダイムのシフトへの試みにつながります.有用性は時代と共に替わります.今有用である必要はないのです.手法の妥当性は無いことを示すことも重要であることは今では認められています.既に得られた手法の否定です.しかしながらそれは非常に難しい作業です.多くの論文誌はインパクトファクターなる指標を得ることにやっきとなり,それに迎合する編集,査読が近視眼的な査読をしてしまっています.査読者の当たり外れがあることが実態です.そのような偶然に学術の深化が左右されてていることが,今もっとも重要なことであり,皆さんが研究成果を残して行く際に,苦労するところになってしまいました. 研究結果を残すことも学生や若い研究者にとってはまだまだ練習の期間と捉えるべきです.自らの論理の甘さや,結果の処理のスキル,さらには図面の作成など,必要な技術を練習する機会と考えるべきです.そこで必要なことは,上記の楽観主義と同時に丁寧な論証です.有名な論文誌に載せることが目標となる研究スタイルは間違っています.それぞれの論文に適した論文誌がある.それに尽きます. 論文を投稿してもRejectされることがあります.それなら別の論文誌に出せば良いだけです.そのためのフィルタリングと指導を受けたと思えば良いのです.査読者への当たりの善し悪しもあります.どうやって公開できるかまでに積み上げていくかを学んで下さい.別の論文誌とはより低い評価を指すものではありません.より適した論文誌という意味です. 5.おわりに †世の中が STEM 一辺倒になり,人社系科学の存在を否定したり,可否判断することが増えています.そのこと自体が,人類の営みを否定する行為と言えます.無謀にも傲慢なエリート感覚で生命や意識といった高次の機能に挑戦する研究者が現れています.その様な研究をする準備が,本当に我々の世界はできているのでしょうか?漸く定常状態では無くその変化の過程を理解することに学問のフェーズが替わった状況に過ぎないのに,その変化を制御できると傲慢に考えて居ます.だれも動的なメカニズムを理解していないのに,世の中の風潮が現在残ったロングスパンの人社系の知見を本当に理解しないまま,低レベルの知識で類推できなくなったことを持って必要が無いと言い切る今の状況はあまりにもお寒く,この30年の世界のあり方を象徴する出来事のように思います.手法論と本質的な意義論を取り違えている現代の教養欠如は,技術の未熟さ故だといえるかもしれません.情報は知識では無く.外部メモリーは検索以上には使えていません.使えるのは元々が何の知識かを理解できる場合だけであるのは当たり前のことです. #ref(): File not found: "photo2019s.jpg" at page "Research2019" 過去の記載内容 † |