我々の研究室に興味を持つ皆さんへ

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我々の研究室に興味を持つ皆さんへのメッセージ (2011)           by PI (引原隆士)

以下は,2011年度研究室配属に当たりだしたメッセージです.配属が終わった今,また世の中の状況が大きく変化した今,過去のメッセージとすべきと判断しました.ご了解下さい.

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2011年版

 毎年年末年始にこのページを書き換えて,早くも7年目になる.過去の記述どうしの整合性が必ずしもあるわけではないし,記述が矛盾しない訳でもない.我々の研究室で実施される研究活動に参加したい,参加している,そして巣立つ方に意識してほしいこと,また参加されなくても京大の電気電子の学生に知っておいてほしいことを書きためたものである.例年,他大学や学内の教員の方から「読みました」と言われるが,それは意図していないことであることを最初に述べておきたい.本年はタイトルを「我々の研究室に興味を持つ方へ」と変更している.笑い話は,私自身が書いていることを,ある方がどこかの先生の意見として私に述べられたことである.

1.はじめに

 多くの日本人が,研究というものが古来の武道,芸道のような型を主体とする道であり,その道を究める人が学者とよばれる種族であると思っているという懸念がある.確かに一見そのような側面があることは否めず,分野を極めた学者・研究者が述べる言葉が,熟慮された言葉としてTVや雑誌で取り上げられることが多いが,専門と異なる分野への発言,特に政治,経済,文化論への発言が求められ取り上げられるのは適切なことであろうか.年齢相応の経験を経た人であれば,研究が外部の評価を受けたり,研究が認められる様になったからといって発言が変わるものではない.正しい意見は,そのような個人の状況に関わらず通らなければならないし,間違いは否定されねばならない.それを評価が裏打ちする様な意識で見る今の風潮に,社会だけではなく個人に対しても危うさを感じる.我々研究者が述べるべきは,研究に於ける経験に裏打ちされた言葉だけであり,もしそれが他の世界で意味をもつとすれば,聴く側が何らかの触発をされたということに過ぎない.その発言をした研究者が全ての世界に熟達して極め,責任を持つということではない.本ページの記述も同様である.

2.学ぶこと・教えることについての考え

 文科系,理科系を問わず,大学の最終段階で,研究室もしくはゼミに所属し,その指導者の流儀で研究のアプローチを学習する.このことが,それまでの試験を中心とした勉学と大きく異なることである.昨今SSHなどで研究のまねごとを高等学校で履修してきた学生がいる.テーマを与えられ,可能な手段で調べ,そして検証する.自由課題の範囲であり,研究と称することによってモチベーションを上げることがなされる.こういうことは,本来小中学校の夏休みの自由課題で習得してくるべきことであり,カリキュラムとして行うことではない.もともと学習意欲の高い生徒が,高校のカリキュラムだけでは満たされず,その知的好奇心を満足させる機会として,指導の下に行われている.このような活動はその対価を求めずに自発的になされてこそ意味がある.おし着せの疑似体験を文部科学省の予算で指導することが今の教育の歪みといわずして何であろうか? 生きる力を付ける教育? こういったことを考えることの貧困さには,思ったら何でも実施できる責任者の結果も想像できない姿が思い浮かぶ.

 規範があり,対価が有り,例があり,そして結果があるもの,そんな活動が研究であるはずが無い.しかし,そのような指導を一旦受けてしまうと,刷り込まれた意識をぬぐい去ることはできない.リスクを取ることも出来なければ,冒険もできない.安住してゴールがあり,そして手法も評価基準も有る様な研究が何処の世界にあるのかを,指導する側が考えなければならない.研究は,いつか自らの科学的能力のレベルの限界を超えて,どこがゴールか分からない目標に向かって走り出し,それまでの人類が辿り着けなかった地点に届こうとする行為の一つである.野球の某選手がアメリカのチームに行く時に,リスクを伴うことで評価される行為であるにもかかわらず,契約書に成績が上げられなかったときの待遇を書き込むことに必至になっていた記事を思い出す.その前にその選手はプレーヤーとして存在できないではないか.

 この同様の本末転倒なあり様が,現在の初等教育から高等教育への流れの中で生じている歪みの典型例であると私は思う.そして,研究とは何かを知らずに「研究」として「教育」することの危険性を自覚する必要がある.研究を知らずに研究を教えることの出来る教育者とはいったいどういう存在なのか? 同時に,人に教えることは生半可なことではなく,知ったかぶりで人に教えるふりをすることはできない.また教えるということを考えず研究指導する研究者とはどういう存在か? これもまたまかり間違えば,人を無視した結末につながりかねない危険性を持つ.大学の教員は研究者であり,研究者であると同時に教員である.

 研究を究めたとき,その手法論や思考法が人に手がかりを与えるということは理解し得るが,決してその手法で人を導くことはできない.人を見出し,人を育み,人を会合させ,人に自らを助くる自信を持たせ,我がことを従とする,これが教授たる者の有るべき姿と信ずる という考え方を読んだことがある.まさにその通りで,いずれが欠けても教授たることはできない.仮に成功体験から自分の手法・流儀を押し付けたとき,あとのものはそれを守るべき流儀と勘違いする.研究とは逆でその流儀を破る所から始まらなければならないし,教える側はそれを受け入れ,研究に我が我がという意識を放棄しなければならない.

3.教えることと学ぶことの関係

 研究室,ゼミで指導する側ができることは,特定のテーマに関する科学的,技術的アプローチの伝授に過ぎない.実際の所テーマは何でも良い.その中で人として対峙することになる.大学の指導者である教員が完璧な人間でないことはだれにも明らかである.しかしそのことを忘れてしまいかねない状況がそこここにある.たとえば,マンネリ化した研究の中で井のなかの蛙と化し天の高さも見ないとき,研究とは関係ない役職で人を動かした時,器と年齢と役職で大きな研究費を動かす立場になった時,そして自ら新しい研究領域を切り開くことを忘れた時,自分が教える側と思い上がった時 などなど.これらは,研究者が勘違いして尊大になってしまったとき落ちいる陥穽である.これを避けるためには,結局学び続けるのは,指導という機会を得,新しい人に接し,新しい知識に出会い,そして真摯に議論を重ねる研究者自身である.つまり,学ぶ実践無しに研究指導というものは成立しない.我々はそのために勉強をし続けることになる.教えるために勉強する.勉強し,考えそして自分として理解した道筋で人に理解を促すことが教えるという活動に動的な影響を与える.教える行為に出たとたん自分の未熟さを理解する.そして,未熟さ故に学習し,そして考え,新たな道筋を探る.このダイナミックな動きが定常に収束してしまった時,「教える」側の立場は保てないと考えている.

 一方指導を受ける側は,何か学ぶものを形として期待してはいけない.学ぶ対象は,同じことを指導されても受け取る側によって変るものであり,その結果が良くも悪くも元の内容と変っていく.このことは内田樹先生の著書(「先生はえらい」)にも述べられている.突然変異の様にやり取りの中で同じ課題でも見方,扱い方が変っていくことで新しい考察に至り,今までに無い他の分野との融合を生んで行く.そのことを楽しむことが自ずと双方の学びにつながる.同じ講義でも毎年変っていることを教える側か意図する以上,受ける側も重ねて講義を聴くことで新しい理解を生む.これは単位を取れたら終わり,あるいは単位にならなければ聞かないといったこととは全く相容れないことである.

 このような両者による相互の刺激と応答のやりとりを生む環境が生まれた時,研究室で相互に学ぶことができ,研究が成り立つ.この勉強の終わりが卒業,修了であり,設定のための初期設定が研究室配属である.この短い期間でお互いにリスクを取り挑戦できる環境を維持したいと願うのが研究室の管理者としての望みである.しかしいつまでも同じ学ぶ環境に居ることはできない.必ず終わりがあることを意識して,その時を相互に大切にすることが学びの原点だと思う.また,受ける側として必要としなくなった時,研究室から旅立たねばならない.なぜなら,研究室はつねに新しく加わる人のために変って行くものだから.

4.世の中の動きに左右されないこと

 昨今の経済状況を反映して,即効性があり,製造分野を強化するためのもの作りへの志向を強く打ち出した研究が求められている.日本のこれまでの技術面の強さは,単にものが作れるからではなく,その技術を支える観察,経験,精神性にあった.にも関わらず安易な職業教育という名ばかりのマッチング訓練を高等教育と位置づけている.はっきり言って,現在の多くの大学の教育レベルは,20年前の高校レベル,大学院修士は同じく20年前の大学学部レベルという印象を受ける.学問内容の程度ではなくその指導と学習というレベルに於いてである.大学の教育がそのカリキュラムで評価されることになっていること自体,既に自ら大学であることを放棄していると言えないだろうか?果ては,大学院の試験問題作成や受験講習を請け負う予備校があったりする.従って,これらの教育課程を終えた学生により研究開発を行うという企業は,既にある知識を学習して適用するということ以上に教育を受けていない者による非常に浅い,レベルの低い活動になることを理解しなければならない.企業はそのため大学名による推薦ではなく競って広く人を募集し,取り合うことを提唱し,webやマスコミを通じてあおる.どこにも正常な目がない.大学生自身が自分のレベルがどこにあるかを全く理解していない.本当に自分が大学卒と言えるだけの技術力を持っているのか?就職活動のプレゼン能力で勝ち残っても修士1年を終えただけの人に研究を託せると信じることができる論理が企業に有るのか?この風潮の影響は20年ぐらい後に現れるであろう.同じく博士課程の軽視は,英知,技術への軽視であり,その様な企業は淘汰されるのは必至である.また,高等訓練,再教育を許さない今の企業風土は,人を消耗品として使い捨てにする消耗戦に明け暮れる弱い軍隊組織のもので,全く戦略がない.人を育むことを忘れた社会でできるのは薄っぺらい技術論になる.

 政府がイノベーションと称しているものは,お題目だけ上げればなんとかなるというものではない.グリーンイノベーションに関しても,日本が過去20年電気エネルギー分野でどれだけの研究者を育てたかを問えば分かる.ほとんどの大学が電力,エネルギー分野を無くし,通信,情報,生命系に特化した結果,同分野の電気工学の博士課程修了者は皆無に近い.これは,経済の動きに左右されて高等教育の組織までいじることで目先の人気を得ようとした結果である.政府にも大学にも全く長期的展望が欠けている.このような場当たりの教育が,日本の技術の基礎力を失わせてしまったと言える.企業は自ら人を育てることを忘れて大学の組織に介入し,そして景気の動きとともに育てた人を放棄している.一般に今の大学の修士レベルの教育では,分野が異なれば技術者が他分野で活動することはほとんど不可能である.経験・知識に裏付けられない,現実の物理を知らない者が取り組んだところで,表層的な技術の輸入を越えた仕事はできない.電気を触ったからといって電気の学問ができるわけではない.本当に必要な人は横展開できる学理を勉強した技術者,研究者である.そのことが,表面的な人の訓練で置き換えられると考える企業も政府もそして大学も自らの役目を放棄した集団と化している.就職が良いから,景気が良いからと言って,本来の学問の系譜を軽視して人を送り込み占領して喜ぶ様な行動を慎むべきである.お先棒を担ぐ様なことをする大学には将来の希望は持てない.

 日本のガラパゴス化という言葉がある.それが何故悪いのだろうか? 今の日本の科学技術政策は,全ての研究を同じ方向に向けさせるという非常に弱体化した状況を作り出す.ガラパゴスであることが科学の多様性を生み,柔軟性を生む.科学技術政策であるのであれば,新しい経済分野を作り出すだけの気概が必要である.京大はもとよりそういう大学である.しかしながら,現状で成果が上がりやすい分野への投資の追認しかできない.世の中は効率がわる組織を切り崩して,場当たり的な組織の改変に明け暮れている.今やるべきことは,どの国にもない,しかも深い技術論,哲学に基づいた新しい科学への集中ではないだろうか? それが20年後の日本の将来を決める.流行を追っただけの政策が日本の科学技術を衰退させたこの20年の結果の反省の無い政策は,あらたな20年の不振を生むということをもう一度考えねばならない.具体的な方法論の無い政策は精神論で逃げ切り,体勢を決める者が責任を放棄しているような状況で,学生や教員が右往左往することを止めなければ,結局何も残らない.人気が無くなったからと言って主義の異なる学問を消し去るのではなく,より高い次元に学問レベルを上げる機会と考えるべきである.それを忘れた時,いわゆるブームが来てもだれも何も対処できない浅い古い業しか残っていない.今そこここに見えるのはまさに若い羊の皮を被った年老いたオオカミといった姿である.そのことが技術革新を阻害することを今一度考えるべきであろう.このことは個人の勉学,大学のあり方,国のありかたに共通の問題である.

 研究は元々何もないところに道をつけるものであるはずである.今の技術政策はすでに獣道や私道ができたところに,無理矢理ハイウェーを作り,建設費用やそのあとの車の量を目論み,作業者を供給することを研究と考えている浅ましいものではないか.科学技術の進む道は太さを競うものではない.その道が何処にでもつながるネットワークとしての重要性であるとき利便性が生まれ新しい道を生む.世界的な投資を生むのは,大きな変化を生じる時のみで,その時に全てのネットワークが太くなる訳ではない.太くするのではなく,通らざるを得ない道を造るべきである.

 このような当たり前のことが忘れられている.世の中の動きに左右されない透徹した考え方を大学にいるものがやらずして誰がするのか.責任をもつ人に聞いてみたい気がする.同じことをパブリックコメントで書いた記憶がある.どうせ主たる責任者に届かない意見では有るが,個別の現場の責任者さえも同じことを言い活動している現状を見るにつけ,憂えざるを得ない.

5.新しい研究とは

 何も勉強もせず,新しいことのみを目指すことを唱え推奨する指導は浅はかである.オリジナリティとは何かわからずに何かオリジナルを捜す,これが最初に述べた疑似研究の問題点である.まずは習う,そして慣れることが不可欠であるにも関わらず,成果(工学では効率や最適値)を求める要求をし,表面的なまとめの奇麗さで評価することに何の意味があるのであろうか.自らの知識と研究の先端との距離を認識して,それに触発されて勉強することができればそれ以上は望む必要はないのではないか.根本の原理やメカニズムを理解せずに日々何が新しいかだけを追いかけている姿勢から新しい科学が生まれることは無い.人の研究に必ず「何が新しいのですか?」と尋ねる人がいる.それを調べていくのが研究ではないか?最初から分かっていたらそれはその人の仕事ではない.質問をする側の軽薄さ以上に,そいういう風潮のお先棒を担ぐ研究者が大学にあまりにも多いことが問題である.

 仮に1990年の論文の成果に今自分の知識と設備だけでたどりついた時,それを既存の結果と切り捨てるのは正しいだろうか.その作業の繰り返しが,自らの知識レベルを上げ,さらには新しい工夫へとつながる入り口ではないだろうか.このような習い慣れることを経ずにオリジナルという道はない.自分の力で人類の科学史の1990年代の成果までたどりついたことを喜び,それを自信とすることがまずは必要ではないか? 科学知識レベルの上昇が学生のレベルでも到達を可能にするのは,すでに回りの知識がその成果を取り込んで成長し,内在的に辿り着ける可能性を高めているからである.しかし,それでも結果へのモチベーションやアプローチが異なり,その後の展開にも大きな違いが生まれる.今持てる知識で,再度過去の結果を見直して行くことがまずは新しい研究への入り口である.原点に戻ってそのオリジナルの仕事をおさらいすることは,稚拙に見えるが最も最先端に近い道であると思う.その時間を持てる,またその時間を待てる環境を維持することが研究室の取るべきことである.その中で行くべき方向が見えた時,全てを投げ打って集中して取り組むことができる人のみがオリジナルな研究に辿り着けると信じている.プロジェクトだからと言って表面的な成果に終始したら何も残らない.その出口と同時に原点を掘り下げる気概無しには何の意味もないと考えるべきだろう.

6.学び始める人へ

 まずは盲目的に信じてみることが必要ではないだろうか.先輩を見て1年後の自分の姿を思い描きながら,習って慣れることを最初の仕事で始めて欲しい.課題は何であっても同じであるが,できるだけ入りやすい所から入れば良い.やはり大きな成果が得られる入り口は狭く厳しい.それを敢えて選ぶリスクを取れる人は挑んでみてはどうだろうか.議論ができる信頼関係を築くには,助走として勉強会,研究会などで,自分の足りなさを躊躇無く先輩同輩に晒していく勇気が必要である.その姿勢が吸収する力に変る.知識を吸収するには思いっきりその入り口を開け,深呼吸できる様にしなければならない.自らを虚飾でカバーして口を閉ざして息をひそめる限り他から何かを学ぶ段階には達しない.ウォルトディズニーは,夢をかなえる秘訣は4つのCに集約されると書いている.それは「好奇心 (Curiosity)」「自信 (Confidence)」「勇気 (Courage)」,そして「継続 (Constancy)」であると.それらは一人では達成できるものではないなら,訓練を人に受ける潔さと素直さが必要だろう.そして,テーマを渡す側がどんなことを考えて渡すのかを理解することは助けになる.それが次の点である.

7.教える始める人へ

 若い人の研究への姿勢は,最初に自分が指導を受けた先生で決まると言って過言でない.その指導者のコピーになるところから始まる.場合によってはしゃべり方,立ち居振る舞い,服装の趣味にまで至る.それはひよこが最初に見たものを親と思うことと通じる.だからこそ,我々は自らを律し,正さなければならない.特に若い学生と接する機会の多い,博士課程学生,若い研究者はそのことを忘れてはならないと思う.若い時に受けた影響は,一生抜け出すことができないほどのものである.指導者となる者は,これから研究を始めようとする若い人にコピーの姿で対応することから卒業しなければならない.コピーのコピーは所詮本物の姿を写し取ることはできないからだ.必要なことは,人を見出し,人を育み,人を会合させ,人に自らを助くる自信を持たせ,我がことを従とする,それを学ぶことだけである.そのためには教える側も自分の足りなさを知り,曝け出し,修正しなければならない.  たとえば,自分がやりたい仕事で自分が結論への洞察に至っていない仕事を,中途半端に自分より若い人に委ねないことである.これを指導と勘違いする人が多い.一見「一緒に研究しましょう」というフラットな指導に思える.果たして,研究として渡したため,決して自分が主となって仕事の方向を決めることはできないことがストレスになり相互に感情的にトラブルを起こす.またむやみに仕事の遅さを責めたり,違う考えを議論の中で潰すことにもなる.その結果必ず若い人が潰される.自分が本当にやりたい仕事なら必ず自分一人でアフター5に行うべきである.所詮どの課題もその原点が本当に自分にあるのかどうか,これを自分に問う冷静さが欠けた状態が若さではあるが.若い有能な研究者は思いがけない考えを持ってくる.その時,自ら一歩引き,若い人に自信を持たせ,自分を従とする潔さが持てなければ,上に立つべきでない.自らのテーマを如何に複数持ち,それらをスパイラルに伸ばしていくかが資質として問われ,可能な環境を選択して行かなければならない.このことを常に確認することが必要である.

 さて,今年はここで終えます.読まれた方の今後の参考になれば幸いです.

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Last-modified: 2013-10-22 (火) 16:53:12 (1491d)