我々の研究室で研究を希望される皆さんへ?

2009 年度の記載内容です.

1.研究室を選ぶこととその意味

 3回生もしくはM1が配属されたい講座・分野(研究室)を選択することの意味は,自らのメジャーとなる一つの専門分野を選択する事であることは言うまでもありません.しかしながら,工学の基礎としての全学共通科目,電気電子工学の専門科目を修得して来た学生の皆さんには,その一部をメジャーとする生き方が果たして正しいのでしょうか?そんな狭い世界を若い時点で選択してしまうことが本当の意味だとしたらそんなに悲しい事はありません.どの教員も言う様に,所詮その研究分野は入り口にすぎないということを理解してもらいたいと思います.

 自らが学ぶ事を忘れてしまったらその人はどこにいても同じですが,研究の入り口において,おそらく誰もが研究の課題を与えられます.それが自分の好きな科目に近い所で選んだとして,課題の背景,意義,価値,目的を自分で肉付け出来るかどうかです.そして,その課題を通じて研究のアプローチを学習したあとで,本当の研究が始まります.それは「何が問題なのか?」.これまで受験勉強,試験の勉強を続けて来た学生にとって,いちばん難しい問い:それは与えた課題において何が問題なのかを自ら導きだせるか が問われます.それは単にそう思うとか考えるといった感想ですまされるものではありません.論理的にあらゆる可能性を思考実験,数値計算,実験でつぶして,そして教員が与えた課題に対して,一体いま何が問題なのかを自ら導出できるようになること それが最も重要な問いかけだと思います.その問いかけがどの分野でなされるのであれば,これまでの勉強して来た知識から対応できて訓練に入れるか という側面から研究室を選ぶことが大切なのではないでしょうか? 皆さんが卒業し,大学院を修了し,研究者として一人前になった時,その研究室で学習して来たテーマは過去のものとなります.テーマの人気で選ぶのではなく,どの領域で訓練を受けるのが自らの方向性に合致しているかを考えて選んでもらいたいと思います.

 研究室で受ける訓練には自ずから方向性があります.4回生で受けた訓練は一生ベースとする拠り所になります.逆に大学院で研究室を変わると,その訓練が再度必要となります.異なる価値観の訓練を受けた人を研究者として確立させるには一部修正して再度訓練するということも必要になります.これは知識ではなく,体験として残るからです.それほど本質的な訓練であるという事を今一度考えて研究室の選択をされるべきであろうと思います.研究室を変わることは悪いことではなく,新たに新しい価値観を受け入れて最初からもう一度学ぶ気であれば何も問題はありません.問題が出るのは,最初に得た価値観だけを通して新しい環境の価値観を拒絶する時です.

2.研究室でまず求められること

 研究室見学に来られるたびに,「休みはどれだけありますか?」,「大学院の入試の勉強はできますか?」,「テーマは先輩と同じですか?」,「実験は忙しいですか?」・・・上げれば切りが有りませんが,聞かれる方もいい加減嫌になります.だから最初からすべてをありのままに伝える様に先輩の学生さんにはお願いしています.それは個人次第です.ネガティブキャンペーンを張って人気がないという事はその学年はそういう人の集団だと私は判断します.それで良いと思っています.自分に足りないものがあれば時間も惜しんで補充するのが学生として当然であり,余裕があれば人にも教え,さらに新しい事を試み,いつも全力で走るべきだと思います.適当に手を抜いてその場を凌ぐという態度は受け入れていません.ましてや何時から何時までだけ勉強するなどというサラリーマンの様な勉強で律することが出来る専門分野はありません.その分野でトップを走っている人に比べてそれ以上に勉強に集中しなければ,それ以上は有りません.だから,これらの質問は価値観に合うものではありませし,その程度で専門の主張できるような適正はありません.

 研究室は,一つの価値観で教員と学生が同じ方向のテーマに対する研究の訓練をする場です.学生の方を労力と考えて実験をさせるところではありません.その研究室の中で研究テーマに関して,教員と学生が共同研究者となりうるまでには,ある一定以上の経験と訓練が不可欠なのです.研究室はその場を提供しているにすぎません.教員も先輩も誰もが各自独立の研究テーマを走らせています.たとえば教員も新しい分野を基礎の基礎から立ち上げて行きます.各テーマを研究室という括りの中で議論し,世に問えるかどうかを磨いて行く場としています.その中で不充分であれば,他の研究室,他の大学,海外の研究者という外の世界でのポリッシュアップを図ります.それらを経た後,論文誌,学会での公表に値するかを決定していくプロセスを遂行する場となります.従いまして,教員も学生もそれぞれのテーマを尊重しながら,真摯にその内容を議論する場でなければなりません.何か美味しいものが無いかとか,いい結果だけを示しておけば良いとか,何か良いところだけを取れるものはないかといった,自分の事だけを考えた行動をする人がいれば,その時点で成立しない世界です.

 すなわち,研究室という括りの中では,教員も学生もそのテーマが成立する原典の精査から結果の完成までをさらけ出す事ができなければ,お互いに向上できないのです.それぞれが護りに入り,学生からの意見に教員が聞く耳を持たない,またそれに考え方を示さずに隠す,あるいはどちらかがどちらかを人足の様に使うといった場では望めないものです.意識して維持しなければ成立しない環境を作り上げなければなりません.

 研究室でなされることが何か分かったとき,皆さんが取るべき方法は,その研究室の教員,先輩と価値観を共有できるかどうかです.配属された後は,そのための学習が最も大切となります.少なくとも皆さんに教員や先輩が合わせることは絶対にありません.

3.研究室で学んでほしいこと

 どの研究室もそうですが,京都大学の研究室である以上,夫々の分野で重要なテーマに挑み,新たな分野を切り開く仕事を行って他に提示するのが当然です.分野に上下はありません.経済状況,政治,そして様々な動向で世の中がもてはやすテーマは変わります.そんなはやり廃りに関係なく,新しい分野を切り開く研究を推進することは並大抵ではありません.私の師は自分の研究に関して「流行った時には全てが終わっていた」と言い切ります.上に述べた様に,学部の専門科目の狭い範囲の学習ではそれらの分野の推進には何の役にも立ちません.電気電子工学の全ての分野の知識に加えて,物理,数学,そして化学,生物学等の知識を必要に応じて運用できる総合能力が必要なのです.そういうことを訓練の中で知っていった時,さらに電気電子工学の専門だけでは足りないことに気がついていきます.それは,電気電子工学が工学の全ての分野の基盤になり,さらにそれらを吸収して拡大しているからです.逆に他の分野も電気電子工学の知識無くして何も出来ない程になっています.そんな中で,電気電子工学の学生がもつ理解の重要なことは,電気電子工学としての電磁界理論,回路理論,量子力学,システム,エネルギー的な理解とその解析運用力です.物理からエネルギーまでの全てをその対象に応じて使い分け運用できると同時に,無次元化による一般化及びスケール則に基づく洞察によって,統括的に事象を理解できるようになることです.そういう能力が電気電子工学の学生として求められるものであり,狭い専門性は,多くの学生の就職に当たっては訓練の一課程としてしか見られていません.すなわち,訓練の分野そのものではないということを今一度述べておきます.残念ながら,多くの大学院生においてもそれが理解されていません.一方で,多くの教員においても総合的な力が重要とおもいつつも,即戦力を重視し,個別の知識に偏った人を輩出してしまっていることも事実です.その中で,学生はバランスを取って自らの能力を高めて行くための総合力を,基礎から高めてほしいというのが私の考えです.

 総合力には全てにおける基礎力が必要です.学部の専門科目で学習した事は,電気電子工学としての基礎です.それらの基礎の上にこれから研究に向けたさらに必要な知識と能力を築いて行かねばなりません.先輩との輪講,教員との輪講,そして研究室間での勉強会などを通じて,あらゆる情報を習得してもらいたいと思っています.「研究テーマ」はそのためのモチベーションの一つです.

4.学習することと研究することの違い

 「研究する」とは何を意味するのでしょうか? また「学習する」ということとの違いは何でしょうか? 残念ながら修士を終えた人の少なからずが分からないままに修了して行っています.学部生であればいざ知らず,わからないままに修士に進学し,そのまま終えてしまう現状,これは偏差値や学力とは別の次元の話です.

 要領の良さは成績を取るために重要かもしれません.そういう人ほど,研究に際してウェブやデータの調査だけで自分が研究した気になって,その内容の精査もせずに鵜呑みにして筋だけを作ろうとする傾向が見られます.そのような作業は研究には何の役にも立ちません.データを前にしても,そのデータの信憑性を問わずして,人の説明を借りて説明をつけて悦に入る・・・それは作業者の浅知恵です.何の学習もありません.これは研究以前の問題で,学習も出来ていません.

 先達の結果に敬意をはらいつつ,そのデータを自らのデータで再検討する作業から理論や過去の成果の理解が始まります.原典のデータを得る事ができずしてその理論には到りません.その作業が学習です.手を動かして理論計算し,時間をかけて計算もしくは実験する.その結果見えるものが原典の理論で説明できた時,その結果が学習出来たと言えます.もし,その中に説明できないデータがあったとき,皆さんはどういう行動をとるでしょうか? その行動の選択が研究者の将来を大きく決定します.そのとき,学習した全ての知識を当てはめて説明を試み,その中で説明がつかないときさらに学習を続ける,そしてまた説明を試みる・・・この作業は不毛です.しかしそれを意識下,無意識下で行える資質が,研究者として最も重要なものです.その時点の知識で何も得られない時,疑問点として意識しながら自らの引き出しにしまい,理解の結実の時を待ち続けることが出来る能力が必要となります.それは要領とはほど遠い能力です.なまじ,分かった様な解釈を与えて忘却することは禁忌なのです.人に説明をもとめ,もっともな説明を受けて納得してしまう事もあり得ますが,それでも理解できないときどうするかが重要です.

 研究できる能力とは,自己主張や人の受け売りをする能力,言うまでもなく政治的に組織や学会を運営する能力ではありません.あくまで科学的対象に対して,その疑問点に対して,可能なあらゆる手段を講じて理解を試み,可能性を全て洗いながらそのメカニズムや合理性を追求し,自らの試みていることが新たなことであることを証明することの出来る能力であると言えます.直感が優れている人に会う事があります.それは直感ではなく,その人が全ての能力で,その問題のポイントを他の誰よりも早く(瞬時に)それまでの知見の総合力から見いだす事ができる能力を高めているということであると言えます.それを証明して行く事がその人に課されます.できないときは,合理性の無い判断をしたと言われてもヤムを得ません.発見とは言えません.だから研究が必要なのです.だれもがその成果を,特別の知識や技量を経ずにたどることが出来る様になったとき,研究は完成します.

 しかし,学習は終わりません.またあらたな理解のために学習がその完成の時から始まります.

5.研究者とは?

 研究者とはどういう存在でしょうか? 私も明確に定義をすることはできませんが,身の回りにあった例を挙げてその答えとしたいと思います.

[例] 学生が日頃から検討している方程式の数値計算をその日も検討を試み,教授から依頼されたパラメータの地図を作る作業を行っていた.これまでのデータで概ねその概要が明らかとなり,そのほとんどが明らかとなった.現象が変化する分岐点集合を求める中で,曲線的に変化する部分と直線的に変化する部分が近づき,ある領域でつながる様に思われる.これをつなぐと話が単純であり,また図も美しく出来上がるように思われる.ただ,若干そこで曲率が異なり,少し違和感がある.このデータを実験で求めても,数値計算でも同様である.結果として,これらの分岐点集合をつなげて,データをつけて教授に報告し,論文としてまとめることになります.そして,このデータの問題を海外の研究者に指摘されることになります.そこに新しい誰も知らない現象が埋もれていました.

皆さんはこの例をどう感じますか? 訳が分からない説明かもしれませんが,実は私が学生の時に体験した大失敗の例です.私は配属された U 先生の研究室で,「カオス」の研究をすることを希望しました.Duffing方程式のカオスの発生のメカニズムには U 先生が知らないものはもう残っていないと言われていました.我々はそれを信じつつ,学習を兼ねて同形の方程式の解析を行い,カオスの発生・消滅を説明する分岐集合を何日も追いかけました.その作業の中で,カオスが消える領域の前後での分岐の様子が大きく異なる点が上の気になる点に含まれていました.それを見つけることが出来なかったのです.U 先生からは学会の公の場で,その新しい分岐を見つけられなかったことを叱責されることとなりました.私の責任の大きさを痛感させられた,また研究者としての自覚を求められた瞬間でした.

自らが研究者となっていなかった姿をそこに見ます.作業者として図を完成すること,それしか頭にありませんでした.新しいものはいつなんどき目の前に現れるか誰にも分かりません.そのための準備が全く出来ていませんでした.少なくとも学習ができていませんでした.それ以後,この世界で仕事をするには自分はまだ早いと理解し,その後8年近く手を出す事はありませんでした.次に手をつけたときに発表した結果は海外の研究者との共同研究でしたが,それが私の結果であることと,私が再びこの分野で仕事を始めたことを U 先生に伝えてくれたのは,先に我々が見つけられなかった結果を見つけて突き付けて来た同じ海外の研究者でした.

[例] これもまた自分の例です.あるとき,電話が有り,最近発表になった結果の説明をしてほしいから訪ねるとの話がありました.初めての経験でもあり,喜んで引き受けました.ある日,その研究者が訪ねて来た際に,求めに応じて懇切に説明をし,その面白さ,新規性を主張して自らをアピールしました.それから数ヶ月後,ある研究会でその研究者が同じ現象を自らの実験装置で見つけ,新しい現象として論文投稿していることを知る事になりました.あわてて論文誌の編集委員会にその内容の確認をしたところ,私の発表済みの論文を引用もせず,完全に無視した形で論文が書かれているというものでした.それから数ヶ月,編集委員会,査読者を交えたバトルが続きます.最終的にその論文は元のままでは採録にはなりませんでしたが,同時に私は人間不信になると同時に,その分野の研究から手を引く事になります.

「剽窃」ということばを知っておいて下さい.研究者の世界において,もっとも大切な態度は,他の研究者の成果を尊重し,そしてお互いに敬意を払って取り扱うと同時に,自らの成果を世に問い,疑問があれば公開の論文誌で議論を進めることです.上の例は,我が国の良く知られた研究者であってもこのような人が居るということです.そして,どの研究者も常にそういう状況にさらされるということです.最も気をつけないと行けないのは,研究室内での同様のトラブル,そして研究室間でのトラブルです.大学を越えたケースもあり得ます.そういうことが当たり前という環境でそだった人は同じ事をします.

研究者は,自らの先見性を主張し,それが認められることを第一義にします.その立場を守らなければ,自らの理解を深めて行く事はできません.だからこそ,真摯な,また率直な議論が可能な環境が重要なのです.研究室がその意味を失ったとき存在意義はありません.研究室が,お互いの考えを尊重し,さらに鵜の目鷹の目で美味しい結果がないかという様な浅ましい考えで研究を進める人を排除し,また教育し,そういう研究者を出さないようにすることが最も大事であると考えます.研究室では,結果が公開されていないだけに問題が大きくなります.それを破ったとき,研究者としては生命を失うという事を声を大にして言わねばなりません.

おわりに

 果たしてここに書いた事が,研究室を選ぶことを目的とした学生に対するものかと言われると,必ずしもそうではないと言えます.ある卒業生が過去の記述を見て,誰に対して書いているのですか? と問いかけた事がありました.おそらくそれらは自分に対して書いていたと言えます.要するに,私共の研究室で研究をしたいという人は,ここに書いた事に対して意識してほしいということです.堅苦しい事を書いていますが,その中でこそ研究の形式,レベル,そして共同研究者としての相互の敬意が生まれるものと思うからです.私は,自分の研究のアイデアを実行する作業者を求めているのではありません.共同研究者足りうる学生の方々に,訓練の後,各自の持ち味でアイデアを元にさらに発展した形の研究を進めてもらえ,それを自らの結果として世の中に問う強い意志を持った人と仕事がしたいと思っています.そして,私との共同研究を終えるとき,独立し,あるいは新しい世界でゼロから研究テーマを立ち上げる方法を学んで活躍してもらいたいと考えています.研究室は最初のステップにすぎません.けれどもそれが一生を決めるということも事実です.その意味は,研究分野の表面的な題目というものではありません.

 さて,2009 年度のメッセージはこれで終えます.読まれた方に何がしかの参考になれば幸いです.


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Last-modified: 2013-10-22 (火) 16:53:11 (2487d)