我々の研究室で研究を希望される皆さんへ

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我々の研究室で研究を希望される方へのメッセージ (2008.3)     by 引原隆士

大学院から我々の研究室で研究に加わりたいという, 他大学,他研究科の方は,メイル等で連絡を取って下さい.留学生の方も同様です.見学も随時受け入れています.高校生の方で研究室を見学したい方は,先生を通じてご連絡下さい.

はじめに

 ホームページで私見を述べることの危険性,およびその反応がどんなものであるかを充分知った上で,このページを書いています.

1.研究の開始

 さて,このページを読まれる方は,何がしかの興味を持って,研究室のホームページをネットサーフされたものと思います.

 毎年4月になると,京大電気系の4回生が研究室に配属されます.最近は,配属方式が変更になり,3月の間に学生各自の成績により,本人の意思を重視して決定する方式をとっています.だいたい研究室を1番から42番まで希望に従って順位付けできる自信は私にもありません.せいぜい10番目程度で,あとはどこでも結構という感じであろうと推察されます.絶対行きたくない研究室には42番をつけるというのが,最大限の抵抗の方法なのであろうと思います.その程度にしか研究内容の区別がつかないのが,4回生としてはあたりまえと思います.

 最近の配属された学生の方の行動に関して気になることがあります.たとえば,

  • 過去の研究成果に敬意を払わない.
  • ネットで検索する事を研究と勘違いして考えない.
  • 自分が所属するグループの価値観を全てと思い,公の場所でそれを主張する.
  • 科学的な議論ができるだけの語学力(日本語力)がない.英語は言うに及ばない.
  • 頭の中だけで考えて,それを文章に落とせない,あるいは黒板で説明できない.

などです.挙げれば切りはなく,単に年齢の行ったものの苦言にすぎなくなります.

 過去,少なくとも10年前までは対応が不要であった上記のような問題点に対して,研究室の研究システムが対応しているかというと,答えは否です.そのため,論文完成のための多くの時間は,実験データの読み方,計算の仕方,はては日本語の表現指導に費やされています.これが現実です.にも関わらず,妙に自信過剰になっている学生の存在は,ほんとうにこれからの日本の科学技術を支えて継承して行けるのかどうか大いに疑問です.その自信はどこからくるのかが疑問でなりません.いつの世も変わらない話かもしれませんが,少なくとも一般の科学技術への間違った理解と相まって,難しい将来が待っている様に思います.

 過去のページにも書いていますが,研究をはじめるに当たり,あるいは続けるに当たり,絶対に守ってほしい原則があります.以下にそれを書きます.

研究の原典をたいせつにする

 今の学生の最大の問題は,ネットで自由に情報が得られる様になった事により,研究の資料を集める事 とネットサーフィンの明確な違いがわかっていないように思われることです.ネットの情報は,だれの審査を受けたものでも,公の評価を受けたものでもありません.多くの指標はそのページへのアクセス数であって,決して内容の正しさ,内容の優劣でもありません.完全に一方的な公開ですから,うそや偽りでも十分に人を引きつけられることは明らかです.そのようなネット上の情報を,科学技術の発展のための基礎情報とする危険性を十分に理解し,本来の意味で正しい情報を得て行くためのアプローチを学んでほしいと思います.そのためには,研究の原典を求め,技術の流れとその拠り所とする原理,そして次にどのような原則を構築して行くべきかという学習をしてほしいと思います.そういう情報を集めるにはネットは最適なシステムです.

 面白い例があります.磁気浮上が制御なしには安定化できないということを証明したとされるイギリスのアーンショーの論文があります.それは,静電界に関する論文ですがそのアナロジーから磁界でも同様であるとされるものです.今ではホームページでその情報を得る事ができます.

http://en.wikipedia.org/wiki/Earnshaw's_theorem

さて,彼の論文

Earnshaw, S., On the nature of the molecular forces which regulate the constitution of the luminiferous ether., 1842, Trans. Camb. Phil. Soc., 7, pp 97-112.

が書かれた時代背景を思い出して下さい.この時代は,まだ真空中はエーテルが充たされてるということを前提にした議論がなされています.タイトルもそうです.ところがこのページにはどこにもその単語一つ出て来ない.過去にエーテルの存在が否定されているわけですから,それは無視するとしても,この論文自体は正しいのかといった議論があってしかるべきとなります.エーテルの存在の可否に関わらず,彼の理論が成立するわけですが,本当にこの論文の原典を読んだ人がどれだけいるのか,たとえば「アーンショーの定理が否定された」といったページを書き込んでいる人が本当に読みこなしているのか疑問があります.以前から過去の原典を読まずに論文を孫引きするという行為は横行しています.そういった行為が,過去の論文成果を間違えて伝えたり,あるいはその成果を間違って否定したりする原因となっています.場合によっては,その先見性を認めずに孫引きしたものが主張するなどといった,愚劣な行為にも繋がっています.必ず原典となる論文を読むこと,それが研究の開始に当たっての鉄則です..

 同じことの繰り返しになりますが,必ず技術・法則の原典に戻り,そこに含まれる創造者の思考の多様性を自分の意識で追体験し,研究を洗い直して行くこと それが研究者に求められることであり,それなくして研究者にはなれません.自分がその論文の内容を検証するに至った時,たとえば1990年の論文であれば,自分の理解が人類の歴史の1990年まで来たのだとよろこべる勉強をしてもらいたいと思います.

研究テーマ

 研究テーマに賎卑はありません.あるのは課題の深さです.学生ははやりのテーマに携わる事を得意げに話す事があります.それはテーマによって自らの価値を高めたいという気持ちの現れとして,よくあることです.しかし,だれもが先端を進め,自ら未開のフィールドに入って行ける力を持っている訳ではないのです.

 いつの世も「今時の学生」論があります.あえて言えば,今時の学生は,課題が常に目の前にあるものとして考え,それを効率よく(楽に早くミスが少なく)解くことを考える傾向が強い と言えます.しかも答えを求める.それは,受験勉強の弊害の最たるものです.人の理解能力のテストを行い,その順列をつける方法はそれで良いのですが,個人の能力の向上としてはそれでは不十分といえます.従って,研究室における研究指導は,この点を修正することに最もエネルギーをつかいます.自分が秀才と自負し自信のあるひと程,この指導が難しいということを書いておきます.

 卒業まで自らを修正できなかった人は多数居ます.すなわち,だれしも一足飛びに研究者になれるわけではなく,それぞれの年次に応じてすべきことがあります.卒業研究では,課題に対して提示された手法を用いてアプローチし,その課題を理解すると同時に手法の運用能力をつけます.修士の研究では,課題の妥当性を検証すると同時に,提示された複数の手法から客観的に適切な手法を選択し,その課題の理解と展開を図ります.最後に博士の研究では,自らの望むべき方向性の中で課題を見いだし,その手法自体を見いだし開発するとともに,課題の一般化と結果から新しい世界を生み出して行くことを重要視します.要するに最終的にどのレベルまで自分が行くかを決めたとき,そのアプローチが決まります.新たな道があっても結構ですが,大数の法則としてそれが基本だと思います.ただ自らの満足だけで研究することも可能ですが,博士の段階では自分の結果を学会等で発表すると同時にそのソサィエティの一員として活躍するすべも勉強する必要があります.教員の親掛かりの状態から自立して行く過程となります.

 研究テーマ それは上記のアプローチを学ぶために与えられた演習課題に過ぎないのです.問題はテーマのはやり廃りでも,分野でもありません.

2.研究者であること

自らが研究者でありつづけること

 最近,特にこの点に困難を感じるようになっています.一つに,国立大学が法人化され,予算を確保することに大学が躍起にならざるを得なくなっていることです.もちろん,博士課程学生のRA予算を確保し,優秀なRA, PD や若手教員を雇用することは重要です.しかし,それが競争的であるため,基礎的な立ち上げに時間が必要でも,現時点でお金のあまり必要がない研究が狭間に落ちてしまうことです.二つ目に,新しい分野を創成して行く時間的余裕がなくなってきていることです.これは,過去の資源を使い尽くしたときに終焉を迎えることを意味しています.大学として,法人化前の穏やかな研究スタイルと競争的な研究スタイルをどのように両立していくのかは,解決されていない課題です.それを忘れた今の日本の大学は,自分が学生の時から追い求めたものではありません.

 このような状況の中で,指導者が研究者であることを楽しむ姿勢がなければ,若い人が研究者になりたいと思えなくなってしまいます.それを意識したとしても,日々追われてしまう現状は適切とは思えません.目新しい論文が出たとき,それを実験して楽しんでみるという姿勢,それが失われたとき,研究者を辞める時であろうと思います.

 学生の方が必要な事は,知識を与えてくれる環境と同時に,考える場を与え,それを試行する機会を与えてくれるPIと出会う事です.それを目指して,人を育てて行くことが研究者であることの意味と思います.学生が目標とする研究者で有り続ける事は不可能です.しかし,そうありたいと思い続けるのが研究者でもあります.

研究と論文数

 研究者はその研究成果で評価されます.同様のテーマを同じ手法もしくはそれをアレンジした方法で少しずつ進めて行く・・・確かに論文はたくさん出ます.学会の論文誌も評価が固まった論文の拡張は容易に掲載します.一つが二つ,二つが四つといった図式です.しかしそれが研究でしょうか? 演習にすぎないのではないか! こういう考え方が自然選択により駆逐されていないことは,学会といえども真理を求める以外の価値観で動いているということです.一つのテーマに対して,+a, +b, +c といた追加手法を繰り返す研究もあります.それがその分野の研究論文のパターンと言われることもあります.何のパターンでしょうか? 論文掲載の最適化のパターンにすぎません.これも演習です.

 論文掲載数は何を意味するのか? 同じことを繰り返して数が多い・・・そんな破廉恥なことを指導者が続けると結局はその学生は同じことを繰り返すことを最適と判断します.それで残る研究者が自然選択されるというのは,研究の世界ではあってはいけないことです.論文の数という悪魔が教育を低下させている例です.作業に落ちた時研究は終了です.

 こんな当たり前のことを,言わなくては成らなくなっている世の中の動きは,私自身が研究者を続けることを困難に感じさせています.卒論,修論の研究内容で,論文誌に掲載されるものもあれば,まだ十分な理解に至らずに継続的な検討をするものがあります.いずれが優れているかという話に成りますが,決してどちらも遜色はありません.それぞれの研究にはフェーズがあります.その萌芽期と結実期では異なるのは当たり前で,結実を得た人はその萌芽を尊重し,結果をそれらの努力の産物として世に問うことになります.それは,研究室の研究活動の成果であるなら,どのフェーズも重要です.

 論文数を多く確保する作業も重要ですが,それとは異なるペースで動く分野もあるのです.その違いを理解できないような風潮は,やはり正常とは言えません.引用数に関する議論も同様です.息の長い研究は,直近の論文数では議論できません.上に述べた原典は,それこそ評価されるべきものですが,そこまでさかのぼれる論文は短期には多くはありません.  とは言っても論文の数を問う今,研究者としての懐の広さが問われることに成ります.それを学生の時に醸成することが最も重要ではないかと思います.

おわりに

 本ページに書いたことは,あくまで一教員・研究者としての意見にすぎず,学科,専攻の意見ではありません.既に今年は研究室配属の希望票が提出され,成績も出そろいました.希望が叶えばそれに越した事はありません.かなわなかったとき,自分が成すべき事が何か,少し立ち止まって考えてみることが必要です.


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Last-modified: 2013-10-22 (火) 16:53:12 (1311d)