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メッセージ                        from PI (引原隆士)

 大学院から我々の研究室で研究に加わりたいという, 他大学,他研究科の方は,メール等で連絡を取って下さい.留学生の方も同様です.見学も随時受け入れています.高校生の方で研究室を見学したい方は,先生を通じてご連絡下さい.

 毎年年末年始にこのページを書き換えて,早くも8年目になる.本ページは,主として京都大学の3回生で研究室配属を検討する人を中心にメッセージを送って来ました.しかしながら,当初のもくろみと異なり,他大学の先生,大学院生などからの反響が大きいことに戸惑いつつ続けています.真摯なご意見を期待します.ご意見のメールはこちらへ.

2012年版

1.はじめに

 昨年は大きな震災とその後の福島第一原子力発電所の事故があり,とても新年を喜んで向かえることが出来ない人が多くいることを意識せざるを得ない.それは神戸の震災は新年を迎えた直後の浮かれた気分を吹き飛ばしたことも思い出させる.1994年に在外研究でアメリカに居た時,ロサンゼルスで地震が発生し,そのニュースで明け暮れた後サンフランシスコ経由で帰国した.そして1年後の1995年の同日に兵庫県の自宅で地震に遭遇した.幸い自宅はひびが入っただけで,帰国後荷物がほとんどなかった自宅ではものが落ちること等の被害は無かったことが幸いした.そして昨年,学会の研究会をお昼を取った後に辞して企業との打ち合わせで浜松町のビルに行き,1階受付に居た時に揺れが始まった.その揺れの長さは神戸の比ではなく,また激しさはそれ以上であったことを記憶してる.過去の経験から,緊急時にどのように判断して対応し,何を優先するかということを常に考えておく必要を感じて来た.多くの場合希望的観測で,噂や未確認の情報の中で動き出すことは危ないが,情報に頼ることも不可欠である.しかし現場に居ない人の判断,経験の無い人の指示または情報は,何の根拠も無いことが多いことも事実である.私が居た東京でも情報は訪問者には全く届かず,その場の人の様子や判断に従って状況を見るしかなかった.そして何万人の帰宅難民が一斉に動き出した深夜,早朝の様子も良く覚えている.まるで映画で見た様な光景であった.我先に道を急ぎ,車道まであふれた人たちは,暴徒となってもおかしくないほどであった.現実は,いくらテレビで見ても分からない緊迫感があった.まず事が起きたとき,自己の状況を冷静に判断し,短期と中期の行動の判断を同時にできるかが最も重要となる.

 我々が生き抜くために動物的に必要なことは物事を見て本質を見抜く感性である.それは研究においても同じである.

2.直感として

 文科系,理科系を問わず,大学の最終段階で,研究室もしくはゼミに所属し,その指導者の流儀で研究のアプローチを学習する.この研究室選びは皆さんは何を基に行っているのだろうか?入学して多くの講義を受け,その講義の厳しさや先輩の噂,さらには先端分野かどうか・・・そういったことを総合的に見ながら決めているのだろうと思う.だれも本当に研究を知っているわけでもなく,その教員の性格を本当に知っている訳でもなく,その分野の将来への深い洞察があるわけでもなく,そして今自分が取る選択が正しくなかったらどうするかということへの想像もほとんど無い.過去にはじゃいけんやくじ引きで決めて来た研究室選択を京大の電気系が止めてもう8年が経つ.それは表向きの理由はともかくとしても,過去のやり方が成立しなくなったのである.偶然に勝ち残ることを恣意的に操作する者が現れ,自らの研究への直感や思いではなく,非常に質の悪い行動が目立つ様になったからである.学問的にはどの分野でも一旦抜け切ると横への展開は非常に早い.そのことを誰もが信じられないことが今の学生の理解の限界なのかもしれない.要するに,直感の目がその分野の先まで通らないのである.

 生きる直感を研ぎすますことは今の受験勉強では残念ながら養われない.経験の無いことは誰にだって想像できない.しかし,その準備を十分することが凡人のすることである.想定外ということばが昨年は多用されたが,想定しないことが既に当事者の能力の限界であり,それをさも誰もそうだというように強弁を吐くことで,実は自分を守っているだけだということを理解することは,今なら誰にでも分かるのではないだろうか? 何かを指摘されたとき,「知らない」,「聞いていない」,「考えたことも無い」,「誰も教えてくれない」,そして「それは自分の管轄外だ」となる.あげくの果てに何も知っていないのに聞きかじりで指示をする.それは全てルーチンワークでこなすことしかできない人の言葉である.科学・技術の研究,開発はルーチンワークではない.そもそもそういう人がいる場所ではない.

 100の機会に1その通りになるかどうかの場合,だれもその人が直感が優れているとは言わないだろう.単にそのままを過ごせば何も変わらない.だから平常にその能力を高める努力をしなければならない.1が10になり30になるとそれはもう直感ではないかもしれないが,失敗した時にその失敗の芽を潰して次回に備えることも無く単にめげて同じことを繰り返すだけでは直感は伸びない.備えがその先への直感を育てる.役に立たないかもしれないが,文系,理系に関わらず一見関係ないと思われる分野を時間があるときに学習し,周辺への理解を進めること,そして遠くの分野の学会に出かける,異分野の人と会う,そしてばからしいと思いながらも懇親会でその人となりを見る,そしてお金を掛けても海外に出て自分の常識が通じないことを知る.こういったことが全て直感と言われるものを研ぎすますことになる.要するに,机に座って人の論文だけを読んで,現実の物理も見ず,手も動かさず,研究の責任を人に課すということでは直感など成立しないのである.すなわち例題演習となる.今は計算と言うツールはあるがどうだろうか? それは安全な場のルーチンワークではないか?

 リスクを背負った時に人は必死になり感性が研ぎすまされるのは,そのときに可能なものは何でも参考にする意思が働くからであろう.逆に言うと日頃は何も人の話にも,広い視野には従わないということかもしれない.乱世,動乱期に洞察に優れた人物が出てくると言うのも関係があるかもしれない.社会や自らが完成したと思った時点で,その人の感性は鈍り,リスクにまともに対応することもできず,判断を誤ることになるのは至極当然と言えよう.

3.ボトムアップで考える

 こんなHPで偉そうなことを書いてもお前は何もしていないのではないかと言われるのは覚悟している.何も知らずに偉そうな事を言った所で説得力は無い.一つの分野で某かの結果と言えるものを残した所で全てに洞察が通る訳ではないことは自覚している.確かに原子力発電所の停止で電力危機を迎えている現状で,本当に何を発言するかは難しい.ある意味で踏み絵を踏ませる様にいろいろなところからの要請がある.しかし,そもそも私にはそれを発言したり一方に組みすることの前提が無い.あるのは技術論としての正しさへの理解だけだろう.要請と言うもの自体が上からの目線である事が多く,本当はどうなのかを正確な方向性を示せるだけのものなど期待されていない.多くは結論ありきである.だから自らの能力の範囲内で提示するものが何をこの先にあたえ,何の研究を必要とするかを示し,その中で示せる将来を提示するというボトムアップの視点しか私には提示できない.

 昨年新聞に研究開発が載った.これは既成のシステムにゲームチェンジを求めるものであることは明確で,そのために現状で直接支援できないと公言する企業もあった.こうやって何年も技術が潰され,お蔵入りになって来たことか.そしてそれが技術と人の衰退を招いて来たかについて当事者の反省は無い.今から人を恣意的に作ろうとした所で技術力の低下は元には戻らないのである.これはエネルギー分野で特に激しく,日本だけでなく世界中で同様な状況にある.物理を扱うシステムに永遠は無い.そのことを考えると常に成長しなければならないにも関わらずやって来たことはマネーゲームと既得権の維持の戦いだけであった.人や社会の成長にはゲームチェンジが必要なのである.

 何ができれば先の構図が確実になるかというキーテクノロジーを捉える感性は,ボトムアップにしか生まれない.描いた構図に適した技術を捜すことに慣れすぎた我が国の現状は,結局は効率と経費削減のみで,新しい構図や世界は描けないものとなって来た.それは効率とは別のところにあるからであろう.社会が変わる時にだれがその効率を考えるであろうか? 体制が替わる時には効率などなく非効率の極みでしかない.これはまるで効率を求めるという意識で洗脳して現状を維持することだけに人の目を向ける大きな意思があるとしか思えない状況である.開発国はコピーからはじまる.そしてコピーの先に来た時に何を見るかである.日本が経て来た過程と同じ経路を,韓国,中国,そしてアジアの國が時間をずらして走っている.コピーでは指針がない.そのことを自覚した日本が行ったことは,過去には軍事化(スペクトルの局在化)であり,また世界の工場化(エネルギーの集約)であり,そして海外移転(集約したエネルギーの拡散)である.同じことが他の国で見られることを理解したら,国としてどうやって対処していくべきかという道筋は明確であろう.次にあるのはエントロピーの制御しかない.それが新しいエネルギーのフローを生む.

 教育に効率はない.非効率な受験勉強を効率的に行うことは既に矛盾している.非効率に意味があることを理解せず,教育現場を知らずに組織をいじり,カリキュラムをいじり,そして形だけ作るのだろうか.トップダウンの改革など何の意味も無い.手を染めて汗を流さないものが研究の成果で教育は述べられないし止めた方が良い.やったところで自己利益誘導にしかならない.多くの教員たちが平等に育てあげた学生がいるからこそ,将来のいろいろな可能性が生まれ,あらゆる分野への直感が育つのであることをより深く理解しなければ,大学自体が専門学校化する.

 さらに教養教育を博士課程に課する試みは果たしてどうか?彼らが将来の職を悩む時に果たして本当にHowtoでない考えを求めるだろうか?また職を保証してはたして教育ができるだろうか?リーダーは上に居るだけでは,結局は間違った教育をすることになる.ボトムアップでものが見られないものに人はついて行くはずがないという矛盾を,本当に制度が解決を与えるのだろうか?そもそも,過去が良かったと言う年寄りの思い上がった制度の導入に過ぎない可能性がある.当時はそれほど専門性は無くても基礎力のみで乗り切ることができた.今はどうだろうか? 今のボトムアップのレベル認識ができていないのではないか.過去の成功事例は決して良い規範ではない.そのままの延長などないからである.そこに制度設計側の弱点がある.

 ドラマで「事件は現場で起きている」というのがあったが,なぜ多くの人は直接その現象,物理をきちんと見ずに情報と人への指示でなんとかできると思うのだろうか.要するに自分がセンスせずにコントロールできることは限られていると言うことである.今現実の技術と情報があってこそ先がある.にもかかわらずそれを封じて,既存の選択肢か稚拙な手法で手を打ってしまう社会にいつから日本はなってしまったのだろうか.ボトムアップで見なければ本当には変えられない.

4.無限から見ることができるか

 論を転じて,無限について考える.数学,物理,工学でも無限を一つの理想的な状態として考えことで理解を進める.その理論構築が大きな飛躍を進めた.しかし,現実の世界に無限はない.無限を保証するために時間を無限に飛ばしてその収束を見ると言う考えにはなじみがあるだろう.その理論に意見は無い.一方で,瞬時瞬時を追いかけてもそれは何も分からない.必要な世界は,局所と無限の間にあるメゾな領域(マイクロとマクロの間)になるのではないか?

 安定性という議論は工学では習慣的になされる.たとえばシステムの特性が無限に離れた状態においても線形性を示すことを前提に,線形行列の固有値を議論して安定性を論じる.非線形なシステムでは,平衡点のまわりで線形化し,その仮定が成立する微小変化 ε の範囲で安定性を論じる.そして特性が線形性を失うとき,外乱に対する応答性で議論する.明快な説明である.ただこれらは,有限のメゾ領域に対して具体的な知見を与えうるのだろうか?古典的な工学分野はマクロな理解ですべてを押し切ってきた.時間でもせめてミリ程度の話である.理論の運用者がその領域だけの技術が生き残れる世界で他を律する感覚を保持しすぎていないだろうか?

 電力が60Hzまたは50Hz で議論し,その周期を基準とする実効値の議論は確かに既存のシステムとしては十分であった.現場では直流による瞬時の変化を求めている.それなら対応も有りそうなものにも関わらず,それはユーザーの責任として,整流回路とコンバータ,インバータで処理を求め,自らは効率が良いと主張し,そこだけが安定する世界を維持することを生業とする.過去にインバータが多用されて高調波が問題になった時,その対処は需要家に求めた.つい20年前のことである.高調波でキュービクルのコンデンサが焼けたときも同じである.要するにその時点でネットワークの本来の姿を忘れ,自らのシステムへの接続ルールで乗り切ろうとしたと言えないか?これは世界の新しいネットワーク開発へのチャンスであったはずである.それは無限とは関係ないが,自らの時定数の範囲でのみ議論し,それ以下も以上も許容しない世界を作っている.

 無限に安定と言うことが言えないことはだれも分かっている.だから信頼度と言う有限確率適用分野がある.システムのサブシステムが故障する確率を上げ,それらが直列,並列をしたシステムの故障確率を議論する.いつのまにかそれが無限確率密度の議論に理論上置き換わっている.数字に何の意味があるかを見る方が理解しているのだろうか?発生確率が一億分の1と言ったとき,だから大丈夫という論調で使うことが意味を持たない.たとえば震災時には全ての現象が独立事象ではない.それをきちんと説明しているだろうか?安定性は安全性ではない.そのことを技術者が間違って使っている.安定性を証明しても安全性を証明するものは無い.根本的に定義が異なっているからである.その際に無限というものが現実にないということを意識したとき,どのような手が打てるかを議論し,技術にしてはこなかったことを真剣に考える必要があると思っている. 

 さて,研究室を選ぶこともその人の一生の問題ではありえない.その期間で,何かをつかんで次のステップを踏むかの演習に過ぎない.直感にそぐわなければ問題を指摘し,その研究室の外にある考えを主張することも可能である.有限の時間で安定などないのが人である.その期間期間でどこまでステップを上がるかがこれからの生き方では無いだろうか? 安定したとき,あとは思考を止めてしまい「予期せぬ」外乱,内乱で崩れるしか無いのでは何も意味が無い.  

5.おわりに

 我々大学で教育に携わるものに必要なことは,サービスと犠牲かもしれない.自らの栄達を考えることは生きる上で重要であるが,それは所詮個人の満足であり,大学人としては別の問題である.大学の中で成果をあげそれを大学に還元することが正しいとするのが今の風潮である.しかしそれは瞬時的なものに過ぎない.大学の由来にも有る様に,古今東西の広い知識の集約された場でなければならない.教育はその瞬時の定まらない技術でなされるものではなく,時間によってフィルタリングされた本質を新たな知見で見直すことの繰り返しである.だから殆どは無駄になる.ここには効率は無い.

 学生が自ら立ち上がる機会に正しいと思う答えを示すことを教育と勘違いする若い研究者が多い.確かに全ては早く効率よく済む.しかしそれは教育ではない.一緒に悩み,一緒に時間を費やし,手を尽くし議論することで自分の時間を失っても答え等無い問題に挑むありかたを伝えることが最も大切なことである.だから2年で学位が取れるなどという保証などない.それは演習であり,学位ではない.こんな間違ったサービスを行ってはいけない.

 若い人が新しい理解を示したとき,指導者が自分の主張を超えられたと感じたとき,潔く踏み台になることができるかどうかが指導する者に問われる.それがサービスであり,犠牲である.同時に指導者が踏み台に回っていることを若い人も理解しなければならない.そのテーマに対して一生責任を持ち,決して放棄できず,後戻りができないものであることを知らねばならない.人のサービスと犠牲を糧に育った者は,その犠牲に対して責任を負うことになる.そして自らが犠牲に回る時,潔くその道を空けてもらいたい.所詮我々の継続のための期間は有限だからである.その葛藤の場が研究室である.

 有限の時間でできることをつなぎ,永遠など無い人類の今に寄与することの意味は何か?そんな答えを見出すことはできない.しかし,生命というものの可能性を自ら放棄することだけはしてはいけないと思う.夢や希望があったにもかかわらず途絶させられた命のことを考えれば.

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Last-modified: 2013-10-22 (火) 16:53:11 (1373d)