研究室配属を希望される皆さんへ?
ホームページで私見を述べることの危険性,およびその反応がどんなものであるかを充分知った上で,このページを書いています.内容に関する反論や意見があっても,それはご自分で消化して下さい.HP等で書き込まれているいろいろな私へのコメントは,良きにつけ悪しきにつけ,大学で私の講義,実験等で受けた感想などから自らの位置づけを得る機会を持たれたと判断され,個人的にはそれらの発言の目的を充分に達したと考えています.
3回生後期になるとそろそろ自分がどういう研究室に配属され,どういう研究を進めることができるかを考え始める頃だと思います.自分が電気電子工学科に進学したときに持っていた夢と現在の希望は異なっているかもしれませんし,そのまま夢を追い求めている方もいるでしょう.ここ2年間,1回生の電気電子工学概論でイントロダクションの講義を受け持つことになり,改めて自分なりに考えてみたことを以下に少し書きます.
・原典をたいせつにする 今や,新しい発見,発明が電気電子工学の分野でありえるのか?といった意見を聞きます.つまり,もう電気電子工学はほぼ完成し,十分役に立つ製品,装置,システムが世の中に出回り,研究としてなすべきことは無い という意見です.子供の頃から携帯電話があり,インターネットは当たり前,パソコンは一人一台,車はハイブリッド,ロボットはTVで人と一緒に踊っている といった世の中で,これ以上何が必要なのかと考えてしまいます.技術に関する渇望感は今の日本の社会ではほとんど見受けられません.次に何が必要なのかと考える前に,今の技術がどのようなものであるかをもう一度見直してみることが必要です.世の中に一つの技術が広がり,あまねく同じ装置,システムが行き渡るということは,人間の活動を同時にその中に拘束してしまうとになります.それは同時に,人に寄与するという視点(大域)から,システムを維持し同じ環境を続けるという視点(局所)への転換を生みます.その時,あり得るのはシステムの平衡状態近傍での微調整のみとなります.これは今の技術の流れのほとんどの場合に当てはまります.いろいろなシステムの社会的な位置づけの矛盾なども,このシステムを維持するという観点からは無視され,利用者個人の問題と片付けられます.ほんとうにこれでよいのでしょうか? 何がより良いものであるかはわかりませんが,それを何らかの数値的目標を決めて最適化を図るのが今の技術から生まれる経済です. 日本の今の学生に欠けている点は,技術の流れとその拠り所とする原理,そして次にどのような原則を構築して行くべきかという学習と視点です.電気電子工学概論の講義の中で,私は皆さんに電気電子工学が拠り所としてる数学のほとんどが19世紀中までのものであり,その後の数学の発展を消化しておらず,物理は20世紀初頭の量子力学までで,個別の事例を除けば,素粒子に至る物理は工学にまでは至っていないことを述べています.従って,現在世の中で人気のあるもの,脚光を浴びているものを追い求めることは,技術の一つの枝から伸びは枝葉末節を確認する作業にすぎないのです.仮に大きな技術的な展開があるとすれば,それは幹からのびる別枝に移るだけの大きな視点の変化が必要と成ります.それを見いだせるためには,現在の技術からそのよりどころとする数理物理の原典に立ち返り,その原理を再度見つめ直して展開を図ることです.その意味で,技術の系統樹のそれぞれの内容をもう一度見直すことを奨励しています.計算機は今では電子式が当たり前ですが,その原典は機械式です.力学原理を用いてメモリを作り,そのメモリへの力学的アクセスで演算を行う・・・それが真空管からトランジスタに変わり現在に至っていることは言うまでもありません.だから,機械式の勉強は不要であるというのは,一つの枝の上の議論にすぎないということを上に述べています.たとえば,DNA をメモリに使うといった考えは,計算機とはどういうものかという原典に戻り,新たな枠組みを提示するものに成ります.それらを実現するためには,新たな物理計測,その裏返しとしての制御が必要と成ります.一連の技術的課題は,計算機なるもののあり方(チューリングマシン)に合わせるのであれば,別の枝と並行してDNAコンピュータの枝が伸びて行きます. 別の観点を述べます.原典といわれる論文を読まずに,最近の洪水のように出る手を換え品を変えた論文にばかり目を向けてしまうことで,大きな落とし穴が生まれます.それは,途中の論文(論文はある研究者の考えを含む一般原理の提示である・・・すなわちそうでないものは論文とはならない)で棄却された考え方を,知らず知らず後のものが無視していることです.論文といえども研究者の心理を反映し,その人の栄達や野心を反映しています.そのため,政治的な動きも含まれてしまいます.それを無意識に踏襲することで,幹からのびる多数の枝の方向を知らずに,枝の途中から伸びた短い枝を本枝と思ってしまうことです. 同じことの繰り返しになりますが,必ず技術・法則の原典に戻り,そこに含まれる創造者の思考の多様性を自分の意識で追体験し,研究を洗い直して行くこと それが研究者に求められることであり,それなくして研究者にはなれません.原典を引用していないような論文は,結局は一つの小枝を接ぎ木してあそぶ行為でしかないということを心しておいてほしいと思います.
・研究室のもつ原理原則 電気系の研究室(分野)は,電気電子工学という幹から出た枝です(もちろん電気電子工学が物理という幹から出た枝と言うことも言えます).それぞれの枝には伸びる原理原則があります.それらの研究室を選択することは,この枝の原理原則を選ぶことになります.もちろん,その枝を手入れしている庭師の人(教員)を見て選ぶという考えも成立します.いずれにせよ,そこで得る指導は,原理原則の理解と手法の繰り返しの練習となります. 我々の研究室が原理原則とするものは「非線形動力学の理解と応用」です.それは他の研究室とは異なるものでなければなりません.物理界は基本的に非線形な世界です.その性質を理解することを電気電子工学という Engineering Science を通じて行っています.従って対象は,電気エネルギーネットワークから,パワー回路,パワーデバイス,MEMS,そしてそれらの制御と広がっていますが,その研究のよって立つ原理は同一としています.決して闇雲に適当にはやりのテーマを集めている訳ではありません.
・研究の指導 研究室の研究を継続的に行って行くためには,先輩から後輩によるグループを作り,その中での指導で研究を進める方法があります.しかしながら,我々はそのような設定は行わず,各人が独立のテーマで,独立の手法で課題を見いだし挑戦することを重要視しています.理由は,研究テーマは既に存在するもので,学生はそれを指導の元に実施して行くだけという意識を与えないためです.たとえば企業に就職し,コンセプトを与えられた後その製品を開発する場面を想定してみて下さい.だれがその課題を具体的な問題として与えてくれるのでしょうか? いつの世も「今時の学生」論があります.あえて言えば,今時の学生は,課題が常に目の前にあるものとして考え,それを効率よく(楽に早くミスが少なく)解くことを考える傾向が強い と言えます.しかも答えを求める.それは,受験勉強の弊害の最たるものです.人の理解能力のテストを行い,その順列をつける方法はそれで良いのですが,個人の能力の向上としてはそれでは不十分といえます.従って,研究室における研究指導は,この点を修正することに最もエネルギーをつかいます.自分が秀才と自負し自信のあるひと程,この指導が難しいということを書いておきます.卒業まで自らを修正できなかった人は多数居ます. だれしも,一足飛びに研究者になれるわけではなく,それぞれの年次に応じてすべきことがあります.卒業研究では,課題に対して提示された手法を用いてアプローチし,その課題を理解すると同時に手法の運用能力をつけます.修士の研究では,課題の妥当性を検証すると同時に,提示された複数の手法から客観的に適切な手法を選択し,その課題の理解と展開を図ります.最後に博士の研究では,自らの望むべき方向性の中で課題を見いだし,その手法自体を見いだし開発するとともに,課題の一般化と結果から新しい世界を生み出して行くことを重要視します.要するに最終的にどのレベルまで自分が行くかを決めたとき,そのアプローチが決まります.新たな道があっても結構ですが,大数の法則としてそれが基本だと思います.ただ自らの満足だけで研究することも可能ですが,博士の段階では自分の結果を学会等で発表すると同時にそのソサィエティの一員として活躍するすべも勉強する必要があります.教員の親掛かりの状態から自律して行く過程となります.
・研究室への配属 望むか望まざるかはわかりませんが,研究室配属が各人の成績で決まるようになりました.しかし,成績はその人の研究能力と一対一に対応するものでないことは自明です.一方で,良い成績を取ることを否定することは間違っています.その中で,あらゆる可能性を入学時から提示している中で,自らをコントロールして成績を収める能力は評価されるべきものです.でも,それが必ずしも良い研究成果を生むものではないということは何を意味しているのでしょうか? 研究室の選択の考え方を見直してみる必要があります.たとえば,A という学問分野に興味を持ったとします.その時,A に属するすべての研究室が同じなのかということです.上述したように,研究は幹で決めることもできますが,その後の枝葉の剪定ルールが納得できなければ,研究継続は困難と成ります.そういう手法論への共感は非常に重要と考えます.今後,研究室の配属を考えていかれる方は,ぜひその点を今一度問いかけてみて下さい.そこには人という要素が避けられません.
・自らが研究者でありつづけること 最近,特にこの点に困難を感じるようになっています.一つに,国立大学が法人化され,予算を確保することに大学が躍起にならざるを得なくなっていることです.もちろん,博士課程学生のRA予算を確保し,優秀なRA, PD や若手教員を雇用することは重要です.しかし,それが競争的であるため,基礎的な立ち上げに時間が必要でも,現時点でお金のあまり必要がない研究が狭間に落ちてしまうことです.二つ目に,新しい分野を創成して行く時間的余裕がなくなってきていることです.これは,過去の資源を使い尽くしたときに終焉を迎えることを意味しています.大学として,法人化前の穏やかな研究スタイルと競争的な研究スタイルをどのように両立していくのかは,解決されていない課題です.それを忘れた今の日本の大学は,自分が学生の時から追い求めたものではありません. このような状況の中で,指導者が研究者であることを楽しむ姿勢がなければ,若い人が研究者になりたいと思えなくなってしまいます.それを意識したとしても,日々追われてしまう現状は適切とは思えません.
・研究と論文数 研究者はその研究成果で評価されます.同様のテーマを同じ手法もしくはそれをアレンジした方法で少しずつ進めて行く・・・確かに論文はたくさん出ます.学会の論文誌も評価が固まった論文の拡張は容易に掲載します.一つが二つ,二つが四つといった図式です.しかしそれが研究でしょうか? 演習にすぎないのではないか! こういう考え方が自然選択により駆逐されていないことは,学会といえども真理を求める以外の価値観で動いているということです.一つのテーマに対して,+a, +b, +c といた追加手法を繰り返す研究もあります.それがその分野の研究論文のパターンと言われることもあります.何のパターンでしょうか? 論文掲載の最適化のパターンにすぎません.これも演習です. 論文掲載数は何を意味するのか? 同じことを繰り返して数が多い・・・そんな破廉恥なことを指導者が続けると結局はその学生は同じことを繰り返すことを最適と判断します.それで残る研究者が自然選択されるというのは,研究の世界ではあってはいけないことです.論文の数という悪魔が教育を低下させている例です.作業に落ちた時研究は終了です. こんな当たり前のことを,言わなくては成らなくなっている世の中の動きは,私自身が研究者を続けることを困難に感じさせています.卒論,修論の研究内容で,論文誌に掲載されるものもあれば,まだ十分な理解に至らずに継続的な検討をするものがあります.いずれが優れているかという話に成りますが,決してどちらも遜色はありません.それぞれの研究にはフェーズがあります.その萌芽期と結実期では異なるのは当たり前で,結実を得た人はその萌芽を尊重し,結果をそれらの努力の産物として世に問うことになります.それは,研究室の研究活動の成果であるなら,どのフェーズも重要です. 論文数を多く確保する作業も重要ですが,それとは異なるペースで動く分野もあるのです.その違いを理解できないような風潮は,やはり正常とは言えません.引用数に関する議論も同様です.息の長い研究は,直近の論文数では議論できません.上に述べた原典は,それこそ評価されるべきものですが,そこまでさかのぼれる論文は短期には多くはありません. とは言っても論文の数を問う今,研究者としての懐の広さが問われることに成ります.それを学生の時に醸成することが最も重要ではないかと思います.
本ページで述べたことは,あくまで京大電気系の一教員としての意見にすぎず,学科,専攻の意見ではありません.
最後に,自らが間違いと考えた時にはすぐに出発点に戻って修正できるフレキシビリティを学び,その後に生かしていく姿勢を,電気電子工学という分野で学んでほしいと思います.それ一つ理解できないまま新しい分野や世界に飛び込んでも,同じことの繰り返しでいつも入り口まで行って,中を覗き見し,大変そうだからと言って帰ってくることを続けることにしかなりません.それでは決して真理との会話は成立しないのす.
今回の書き直しは,研究室の卒業生S君の示唆によるものです.OB 会の折りに率直にこのページの内容の修正を進言してくれました.彼が学生のころに求めた研究室の姿を思うとき,その意見を率直に受けることが正しいと判断したものです.ここに御礼を申し上げます.