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*研究室配属に関するコメント(暫定版) (2007.7.7)     by 引原隆士 [#rd931a31]
*研究室配属に関するコメント (2007.10.9)     by 引原隆士 [#rd931a31]

** はじめに [#r8aa5094]

ホームページで私見を述べることの危険性,およびその反応がどんなものであるかを充分知った上で,このページを書いています.内容に関する反論や意見があっても,それはご自分で消化して下さい.HP等で書き込まれているいろいろな私へのコメントは,良きにつけ悪しきにつけ,大学で私の講義,実験等で受けた感想などから自らの位置づけを得る機会を持たれたと判断され,個人的にはそれらの発言の目的を充分に達したと考えています.

-2005年版は[[こちら:http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/hikihara/lab-exp-05-01.html]]
-2006年版は[[こちら:http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/hikihara/lab-exp-06-01.html]]
-2007年当初版は[[こちら:http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/ja/index.php?Research2007]]
-2007年第2版は[[こちら:http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/ja/index.php?Research2007-2]]

**大学と研究 [#m18bd369]
1.研究室配属について

ゆとり教育という言葉の是非は別として,ゆとりが悪いということは無いと思っています.ただ,教育の朝令暮改的な改変は,長い目で見てある世代に対する社会的なひずみを生み出すことも事実です.大学に入学して来たゆとり世代がこれからしばらくは大学のメジャーです.ところが社会的に出た後はマイナー世代になります.また,ゆとり教育の揺り戻しがなされることが決まった今,この世代はずっと社会ではマイナーでその歪みを良くも悪くも抱えて生きて行く事になります.問題は,その世代が自らの教育内容を同じ世代の中で客観視できないことです.すなわち,何が良くて何が悪いかが自ら知り得ず,つねに上下の世代との比較を繰り返し,社会から退くまで追い求めないといけないということであろうと思います.
3回生後期になるとそろそろ自分がどういう研究室に配属され,どういう研究を進めることができるかを考え始める頃だと思います.自分が電気電子工学科に進学たときに持っていた夢と現在の希望は異なっているかもしれませんし,そのまま夢を追もとめている方もいるでしょう.ここ2年間,1回生の電気電子工学概論でイントロダクションの講義を受け持つことに成り,改めて自分なりに考えてみたことを以下に少し書きます.

理系も文系もその基礎教育は,自然,人文,社会の解明を指向した論理学とその演繹です.昨今の受験中心の教育から抜けているところがこの論理性の追求であるというのは表面的すぎるかもしれませんが,子供の頃からの教育の根幹をなす観察と論理の両輪が今の初等教育から欠落しているのではないかと常々感じてきました.『なぜ』という疑問を持てない,それを知るに至る仮説の立証,棄却の繰り返しが,余裕を持って教育されていないのではないかと思います.小学校,中学校,高校とそれぞれの段階で,これらを助ける読み,書き,計算を無目的に学習し,知的好奇心と合体させるということが本当に各人の教育で達成できているかどうかに疑問を持っています.それを打破しようとした試みがゆとり教育にあったというのが主催した側の主張です.その点は同意します.ただ,このゆとりも目的最適化されてしまって,ゆとりではなく単なる教育の最小作用の最大効果を求める作業に落ちてしまっているのが現実です.未履修・・・不幸なのは未履修となった当人でしょう.自らの知識の幅の無さや内容の薄さから,本当の学問の意味を知るチャンスも眼前にあっても理解できないまま,単に中身の無い調査能力を研究能力と勘違いして相互に評価し,地道な本当の学問的作業を遂行できない.こんな学生を生んでしまった現状は,ゆとりとはかけ離れています.
・原典をたいせつにする
 今や,新しい発見,発明が電気電子工学の分野でありえるのか?といった意見を聞きます.つまり,もう電気電子工学はほぼ完成し,十分役に立つ製品,装置,システムが世の中に出回り,研究としてなすべきことは無い というものです.子供の頃から携帯電話があり,インターネットは当たり前,パソコンは一人一台,車はハイブリッド,ロボットはTVで人と一緒に踊っている といった世の中で,これ以上何が必要なのかと考えてしまいます.技術に関する渇望感は今の日本の社会ではほとんど見受けられません.次に何が必要なのかと考える前に,今の技術がどのようなものであるかをもう一度見直してみることが必要です.世の中に一つの技術が広がり,あまねく同じ装置,システムが行き渡るということは,人間の活動を同時にその中に拘束してしまうとになります.それは同時に,人に寄与するという視点(大域)から,システムを維持し同じ環境を続けるという視点(局所)への転換を生みます.その時,あり得るのはシステムの平衡状態近傍での微調整のみとなります.これは今の技術の流れのほとんどの場合に当てはまります.いろいろなシステムの社会的な位置づけの矛盾なども,このシステムを維持するという観点からは無視され,利用者個人の問題と片付けられます.ほんとうにこれでよいのでしょうか? 何がより良いものであるかはわかりませんが,それを何らかの数値的目標を決めて最適化を図るのが今の技術から生まれる経済です.
 日本の今の学生に欠けている点は,技術の流れとそのよりどころとする原理,そして次にどのような原則を構築して行くべきかという学習と視点です.電気電子工学概論の講義の中で,私は皆さんに電気電子工学がよりどころとしてる数学のほとんどが19世紀中までのものであり,その後の数学の発展を消化しておらず,物理は20世紀初頭の量子力学までで,個別の事例を除けば,素粒子に至る物理は工学にまでは至っていないことを述べています.従って,現在世の中で人気のあるもの,脚光を浴びているものを追い求めることは,技術の一つの枝から伸びは枝葉末節を確認する作業にすぎないのです.仮に大きな技術的な展開があるとすれば,それは幹からのびる別枝に移るだけの大きな視点の変化が必要と成ります.それを見いだせるためには,現在の技術からそのよりどころとする数理物理の原典に立ち返り,その原理を再度見つめ直して展開を図ることです.その意味で,技術の系統樹のそれぞれの内容をもう一度見直すことを奨励しています.計算機は今では電子式が当たり前ですが,その原典は機械式です.力学原理を用いてメモリを作り,そのメモリへの力学的アクセスで演算を行う・・・それが真空管からトランジスタに変わり現在に至っていることは言うまでもありません.だから,機械式の勉強は不要であるというのは,一つの枝の上の議論にすぎないということを上に述べています.たとえば,DNA  をメモリに使うといった考えは,計算機とはどういうものかという原典に戻り,新たな枠組みを提示するものに成ります.それらを実現するためには,新たな物理計測,その裏返しとしての制御が必要と成ります.一連の技術的課題は,計算機なるもののあり方(チューリングマシン)に合わせるのであれば,別の枝と並行してDNAコンピュータの枝が伸びて行きます.
 別の観点を述べます.原典といわれる論文を読まずに,最近の洪水のように出る手を換え品を変えた論文にばかり目を向けてしまうことで,大きな落とし穴が生まれます.それは,途中の論文(論文はある研究者の考えを含む一般原理の提示である・・・すなわちそうでないものは論文とはならない)で棄却された考えを,知らず知らず後のものが無視しいっていることです.論文といえども研究者の心理を反映し,その人の栄達や野心を反映しています.そのため,政治的な動きも含まれてしまいます.それを無意識に踏襲することで,幹からのびる多数の枝の方向を知らずに,枝の途中から伸びた短い枝を本枝と思ってしまうことです.
 同じことの繰り返しに成りますが,必ず論文の原典に戻り,そこに含まれる創始者の思考の多様性を自分の意識で追体験し,研究を洗い直して行くこと それが研究者に求められることであり,それなくして研究者にはなれません.原典を引用していない論文は,結局は一つの小枝を接ぎ木してあそぶ行為でしかないということを心しておいてほしいと思います.

一方,昨今の大学教育は教養部の解体で教養教育から専門誘導型の基礎教育に変化しました.ところが初等教育が上述の様に充分に機能しておらず,基礎力の無いままに専門教育を施すという状況となっています.学部でも,大学院でも,基礎の積み上げが新しい分野を生むにもかかわらず,狭い専門の講義もしくはオムニバスな表面的知識の詰め込みを教育と勘違いし,きちんとしたストラテジーを組むに至っていないのが現状です.教員側は早く古き良き時代の遺産に頼らず,新たにどういう学生を育てるかを一刻も早く提示し,基礎教育を中心とするシステムを構築すべきと考えます.
・研究室のもつ原理原則
 大学の研究室(分野)は,電気電子工学という幹から出た枝です.(もちろん電気電子工学が物理といい幹から出た枝と言うことも言えます.)それぞれの枝には伸びる原理原則があります.それらの研究室を選択することは,この枝の原理原則を選ぶことではないでしょうか? もちろん,その枝を手入れしている庭師の人(教員)を見て選ぶという考えも成立しますが,そこで得る指導は,原理原則の理解と手段の繰り返しの練習となります.
 我々の研究室の原理原則とするものは「非線形動力学の理解と応用」です.それは他の研究室とは異なるものでなければなりません.物理界は基本的に非線形な世界です.その性質を理解することを電気電子工学という Engineering Science を通じて行っています.従って対象は,電気エネルギーネットワークから,パワー回路,パワーデバイス,MEMS,そしてそれらの制御と広がっていますが,その研究のよって立つ原理は同一としています.決して闇雲に適当にテーマを集めている訳ではありません.

大学の4年間で学習する事は,最先端の研究の現場でなされている課題ではありません.ある分野の基礎から広がる学問大系の端緒をつかみ,その入り口から先の未知の分野に入って行けるだけの基礎を自ら学習できる力を付け,方法を知ることです.それであればどの分野に展開しても生きて行くすべがあります.今,電気電子に居る人は,知らず知らず電気電子工学の基礎を通じて,”物理”から現在のネットワーク社会を構築する基盤技術のシステム技術に基づいてものを見る術を教育されているのだと言うことを理解してほしいものです.所詮,会社にはいった所で,必要なのは個々の知識ではないのですから.
・研究の指導
 研究室の研究を継続的に行って行くためには,先輩から後輩によるグループを作り,その中での指導で研究を進める方法があります.しかしながら,我々はそのような設定は行わず,各人が独立のテーマで,独立の手法で課題を見いだし挑戦することを重要視しています.理由は,研究テーマは既に存在するもので,学生はそれを指導の元に実施して行くだけという意識を与えないためです.たとえば企業に就職し,コンセプトを与えられた後その製品を開発する場面を想定してみて下さい.だれがその課題を具体的な問題として与えてくれるのでしょうか? 
 いつの世も言われることばに「今時の学生」論があります.あえて言えば,今時の学生は,課題が常に目の前にあるものとして考え,それを効率よく(楽に早くミスが少なく)解くことを考える傾向が強い と言えます.しかも答えを求める.それは,受験勉強の弊害の最たるものです.人の理解能力のテストを行い,その順列をつける方法はそれで良いのですが,個人の能力の向上としてはそれでは不十分といえます.従って,研究室における研究指導は,この点を修正することに最もエネルギーをつかいます.自分が秀才と自負し自信のあるひと程,この指導が難しいということを書いておきます.
 だれしも,一足飛びに研究者になれるわけではなく,それぞれの年次に応じてすべきことがあります.卒業研究では,課題に対して提示された手法を用いてアプローチし,その課題を理解すると同時に手法の運用能力をつけます.修士の研究では,課題の妥当性と同時に,提示された複数の手法から客観的に適切な手法を選択し,その課題の理解と展開を図ります.最後に博士の研究では,自らの望むべき方向性の中で課題を見いだし,その手法自体を見いだし開発するとともに,課題の一般かと結果から新しい世界を生み出して行くことを重要視します.要するに最終的にどのレベルまで自分が行くかを決めたとき,そのアプローチが決まります.新たな道があっても結構ですが,大数の法則としてそれが基本だと思います.

大学での学習を活かすこととは,まさにその経験をどのようにその後に展開するかです.消化されていない単なる網羅的知識や根拠の無いまま言葉を運用する能力など,現実の前には役に立たないばかりか,人に害を与えます.三面記事的な科学知識をひけらかして世の中を渡ろうとは思わないでほしいものです.せめて一つの分野で自分で分かったと言えるまで突きすすんでもらいというのが私の気持ちです.
・研究室への配属
 望むか望まざるかはわかりませんが,研究室配属が各人の成績で決まるようになりました.しかし,成績はその人の研究能力と一対一に対応するものでないことは自明です.一方で,良い成績を取ることを否定することは間違っています.その中で,あらゆる可能性を入学時から提示している中で,自らをコントロールして成績を収める能力は評価されるべきものです.でも,それが必ずしも良い研究成果を生むものではないということは何を意味しているのでしょうか?
 研究室の選択の考え方を見直してみる必要があります.たとえば,A という学問分野に興味を持ったとします.その時,A に属するすべての研究室が同じなのかということです.上述したように,研究は幹で決めることもできますが,その後の枝葉の剪定ルールが納得できなければ,研究継続は困難と成ります.そういう手法論への共感は非常に重要と考えます.今後,研究室の配属を考えていかれる方は,ぜひその点を今一度問いかけてみて下さい.そこには人という要素が避けられません.

**研究者へのステップ [#r51b0651]
2.研究者であること

学生が研究室に配属されるということ何を意味するのか?
・自らが研究者でありつづけること
 最近,特にこの点に困難を感じるようになっています.一つに,国立大学が法人化され,予算を確保することに大学が躍起にならざるを得なくなっていることです.もちろん,博士課程学生のRA予算を確保し,優秀なRA, PD や若手教員を雇用することは重要です.しかし,それが競争的であるため,基礎的な立ち上げに時間が必要でも,現時点でお金のあまり必要がない研究が狭間に落ちてしまうことです.二つ目に,新しい分野を創成して行く時間的余裕がなくなってきていることです.これは,過去の資源を使い尽くしたときに終焉を迎えることを意味しています.大学として,法人化前の穏やかな研究スタイルと競争的な研究スタイルをどのように両立していくのかは,解決されていない課題です.それを忘れた今の日本の大学は,自分が学生の時から追い求めたものではありません.
 このような状況の中で,指導者が研究者であることを楽しむ姿勢がなければ,若い人が研究者になりたいと思えなくなってしまいます.それを意識したとしても,日々追われてしまう現状は適切とは思えません.

研究室に配属されて初めて,皆さんはいわゆる研究者としての教員と直に触れ合うことになります.これまでは教育の側面での一過的な出会いをした教員が,個々の研究において何を考え,何を目指し,どういう資質を有しているかを知ることになります.研究室の選択は,このような人間との出会いが最も重要なウエイトを占めます.上に述べて来た基礎教育の上に,自分の能力の限界を知り,それをさらに補強して伸ばす機会をこの配属に求めなければ意味がありません.毎年言っていますが,卒業研究は与えられた課題を与えられた手法で,確実に処理し,論理的な研究遂行のプロセスを学習します.大学院では,さらに与えられたテーマに関して仮説の設定を行い複数の手法でその論証を行います.工学の学生が陥りやすい落とし穴は,ピンポイントで一般性の無い理論,実験結果,さらにはアルゴリズムを構築し,その研究の位置づけが出来ないことです.
・研究と論文数
 研究者はその研究成果で評価されます.同様のテーマを同じ手法もしくはそれをアレンジした方法で少しずつ進めて行く・・・確かに論文はたくさん出ます.学会の論文誌も評価が固まった論文の拡張は容易に掲載します.一つが二つ,二つが四つといった図式です.しかしそれが研究でしょうか? 演習にすぎないのではないか! こういう考え方が自然選択により駆逐されていないことは,学会といえども真理を求める以外の価値観で動いているということです.一つのテーマに対して,+a, +b, +c といた追加手法を繰り返す研究もあります.それがその分野の研究論文のパターンと言われることもあります.何のパターンでしょうか? 論文掲載の最適化のパターンにすぎません.これも演習です.
 論文掲載数は何を意味するのか? 同じことを繰り返して数が多い・・・そんな破廉恥なことを指導者が続けると結局はその学生は同じことを繰り返すことを最適と判断します.それで残る研究者が自然選択されるというのは,研究の世界ではあってはいけないことです.研究の数という悪魔が教育を低下させている例です.作業に落ちた時研究は終了です.
 こんな当たり前のことを,言わなくては成らなくなっている世の中の動きは,私自身が研究者を続けることを困難に感じさせています.卒論,修論の研究内容で,論文誌に掲載されるものもあれば,まだ十分な理解に至らずに継続的な検討をするものがあります.いずれが優れているかという話に成りますが,決してどちらも遜色はありません.それぞれの研究にはフェーズがあります.その萌芽期と結実期では異なるのは当たり前で,結実を得た人はその萌芽を尊重し,結果をそれらの努力の産物として世に問うことになります.それは,研究室の研究活動の成果であるなら,どのフェーズも重要です.
 論文数を多く確保する作業も重要ですが,それとは異なるペースで動く分野もあるのです.その違いを理解できないような風潮は,やはり正常とは言えません.引用数に関する議論も同様です.長い息のある研究は,直近の論文数では議論できません.上に述べた原典は,それこそ評価されるべきものですが,そこまでさかのぼれる論文は短期には多くはありません.
 とは言っても論文の数を問う今,研究者としての懐の広さが問われることに成ります.それを学生の時に醸成することが最も重要ではないかと思います.

与えられたテーマを自分なりに調理することは大切です.しかし,上に述べた素養の幅が無いと調理した結果は,事実の積み重ねから演繹される相互の関係の見えない,データ集以上にはなり得ません.自分に足りないもの如何に補い,如何に伸ばすかを真剣に考えて下さい.そういう場を研究室に求めてもらいたいと思います.自分が苦労しないことばかりを続けても成長はありません.そんなことができるほど技術,研究の道は浅く有りません.基礎的な積み上げなく研究テーマを何の根拠も無く主張し,それに執着する若い人が増えています.本当に自分がその分野で仕事を出来るかどうか,主張した以上自分が表明した主張をそこで全身を賭けて挑むことが責務だと思います.その責任は自らが被る必要があることを学んでもらいたいと思う事が多くなっています.要する自分の能力を客観的に見つめて,全てに謙虚に挑まなければ成長は無いと申し上げておきたいと思います.
3.おわりに

研究室に配属され,その中で自分をどのように成長させるかを謙虚に意識して学ぶ姿に対して,教員は導き,多様な可能性を示唆するものです.その結果,大きなステップを踏むことになります.一つの論文,一つの方法,一つの計算,そういったもので教員は学生と議論します.それは,相互が緊張した関係で,真摯にそのテーマを議論する中で止揚する場となります.研究室でしか経験できないことで,そこで学んだ事は一生の糧になると思います.
 本ページで述べたことは,あくまで京大電気系の一教員としての意見にすぎず,学科,専攻の意見ではありません.

大学で学ぶべきことは何か,もう一度良く考えて下さい,それは単に電気電子一分野の狭い領域の知識ではありません.
 最後に,自らが間違いと考えた時にはすぐに出発点に戻って修正できるフレキシビリティを学び,その後に生かしていく姿勢を,電気電子工学という分野で学んでほしいと思います.それ一つ理解できないまま新しい分野や世界に飛び込んでも,同じことの繰り返しでいつも入り口まで行って,中を覗き見し,大変そうだからと言って帰ってくることを続けることにしかなりません.それでは決して真理との会話は成立しないのす.

**研究テーマの創出ついて(2007年版) [#l7fc7f10]
 今回の書き直しは,研究室の卒業生S君の示唆によるものです.OB 会の折りに率直にこのページの内容の修正を進言してくれました.彼が学生のころに求めた研究室の姿を思うとき,その意見を率直に受けることが正しいと判断したものです.ここに御礼を申し上げます.

研究テーマをどうやって見いだすかは,教員となった研究者でもわからない方が多いようです.博士号を持っていても,自らテーマが創出できない『ドクター・ストップ』状態の方が多いのも事実です.それは,博士課程のテーマを自ら苦労して確立したものではないからでしょう.テーマは,身の回りに有るというのは言い過ぎかもしれませんが,工学分野であれば,従来の技術がどういう物理に基づいているかの精査を行えば,その応用展開や類型への展開は可能であろうと思います.そういう,水平展開の研究は工学では常套手段です.オリジナルな研究テーマを探したければ,古典をくまなく勉強する事だと思います.古典的名著,論文はだれもが気がついていないいろいろな内容を蓄えています.新しい情報にのみ目を向けていると,肝心のことが見えなくなることはよくあります.落ち着いて古典から見直してみたいものです.そういう努力をせず,常に何か面白い事はないかと人のテーマばかり見て,その上前をさらっていくような研究者は,もっとも忌み嫌うべき存在です.現実には,そういう人が現れています.それは元々能力の無い人が,形だけを求めた結果の不幸です.

現在,大学でも社会でもオリジナルな研究を求めすぎています.オリジナリティとは何でしょうか? 社会基盤を変えるほどのオリジナルな研究は,どこから生まれるのでしょうか? 過去の研究の精査なくして,本当にオリジナルが何かわかるとは思えませんし,またオリジナリティの評価ができるとは思えません.その研究分野の本質的な研究成果をくまなく調べることは,研究者として必須の活動です.そして,古典的な研究が理解できた後,今は必要とされる内容に対してその仮定,結論の限界を見極めることが重要と思います.

自分の実験で,理論通りでなかったり,過去のデータとそぐわないケースに遭遇したとき,これにとにとことん執着していければ,必ずそこから新しいテーマが生まれます.ごくごく平凡な研究者である私自身も,そのような執着がこれまでの自分の多くの研究成果を生んだといえます.執着した内容を自ら理論的に検証し,計算し,実験で確認する.それが研究の基本です.確立した理論,結果を自らの手で再度基礎から洗い直すことは,学習と同時に新たな研究を生み出すことにつながります.時として,その際に伴う論文出版の苦労は自信を失わせますが,それが世の中の常識とすれば,間違いないく芽があると信じて行くだけの根拠を持てるのではないかと思います.

**我々の研究姿勢 [#k0c10ec6]

大学院での研究室の選択は,研究の指導者の選択に通じます.自らその考えに共鳴することができる,あるいはその考えに反論することで新しい分野を構築するに足る相手であるべきだと思います.居心地の良さを自らを引き下げる事の無い形で選んで下さい.私共は配属された学生に自分の手足を求めることはありません.基礎的な手法を学習した後は,かならず新しい概念を自ら探索し,検証することを求めます.これは共同研究者に足る資質を求め,よき研究のパートナーになって頂くためです.そして大学を卒業した社会人と同じ年齢である以上,義務と責務を守った態度を求めています.私どもの研究室は,この点を前提に選択をしていただきたいと思います.大学であれども社会で通用しない事を認めて良いはずはありません.

**研究テーマ:非線形動力学の工学的応用 [#cc332afa]

我々の研究テーマは Engineering Science であり,主として非線形動力学の解析と工学的応用です.その応用分野としてパワーエレクトロニクス関連分野,電力ネットワーク関連分野,ハイブリッドシステム論,電磁機械系,MEMS など多岐に展開しています,基本的には従来の工学システムの線形の枠組みを拡張して新しい電気工学の分野の開拓を目指しています.研究室ではほとんどの学生がその学生だけのテーマを扱います,すなわち,先輩の研究の延長にはなりません.卒論の結果が,数年前に論文になっていたと嘆くことがありますが,私は卒論が演習である以上,自力で数年前の学問水準まで来ることができた経験を喜ぶべきと考えます.

多くの学生の方には実験システムの開発,システムのモデル化から制御まで幅広い検討を求め,研究室外の先生方にも指導を求めています.研究室を選択される場合は,少なくとも非線形動力学への興味,制御の実験的展開,ナノ工学などへの興味などが望まれます.指導者の研究については,それぞれの論文リストから適当なものをダウンロードして読んでいただくことを希望します.そして,我々の研究のアプローチを理解いただければと思います.

我々の研究室に参加を希望する方(博士課程,PDも含めて),何をやっているか見てやろうという人は,いつでも連絡して下さい.


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