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*メッセージ                        from PI (引原隆士) [#sc378ae9]

 毎年年末年始にこのページを書き換えて,早くも9年目になります.本ページは,主として京都大学の3回生で研究室配属を検討する人を中心にメッセージを送って来ています.学外の方は,研究室の指導者のものの考え方を見る参考程度にご利用下さい.ご意見のメールは[[こちら:hikihara@kuee.kyoto-u.ac.jp]]へ.

***総計(since 2010.12.30):&counter(total); 今日:&counter(today); 昨日:&counter(yesterday); [#ge459848]

*2013年暫定版 [#l9a67e95]


**はじめに [#i4f7a24b]

 2013年は,2012年末の総選挙の結果を受けて,なんとなく新しい状況が生まれるかもしれないと言うかすかな希望とともに明けたように思います.本年も,例年通り念頭に,研究室を運営するPIとして考えることを記したいと思います.これまた例年通りですが,対象は新たに我々の研究室への配属を希望する学生の方々です.幸か不幸か読まれる人に内部の人よりも外部の人が多い状況で,対象がぼけてしまう嫌いがあります.その点はご容赦頂きたいと思います.

 最近,大学の役職故に人前で挨拶することが多くなりました.その度に,言葉の少なさ,引き出しの少なさを感じ,場の中で言葉を意味を持って伝えることの難しさを感じています.議論や講義と言った目的の明確なものではなく,全て異なる考えの聴衆の心に少しでも触る言葉を発することがいかに難しいかを知ることになりました.

**1. 教育について [#h7abc704]

 考えられる全ての方策があまねく全ての場合が同様の確からしさを持っているとき,その結果の行方は文字通り確率的です.ただし,それは観察者がその状態を観察し,作用する立場に居ないときであり,袋の中から単に玉を取り出すのであれば,何がおきてもおかしくないわけです.このような初歩的な理解が,政治や経済の議論できちんとされていないことを見ると,日本の教育レベルはいつまでも低いままであることを敢えて望んでいるかのような報道の状況と思えます.確かに人の持つ知識はその人が消えると同時にリセットされるように思います.しかし,社会としては蓄積されねばならないのに,いつも自分が新しいと思い続ける傲慢さは,人の成長を阻害します.昔既に知られていることを,過去の知見を知らずに再発見と称して,同じまま繰り返すことはできません.

 お札の顔として知られる新渡戸稲造は,学問・教育の目的を次の様に分類しています.1.職業のための教育,2.道楽のための教育,3.装飾のための教育,4.真理の研究のための教育,5.人格を高尚にすることを目的とする教育です(新渡戸稲造「教育の目的」).この分類は今でも変らないでしょう.今大学に入学する学生,在学の学生の多くは,その進学において,上記いずれかについて非常な熱意と野望を持って不毛な学習を続けられたというように思います.すなわち1および3を目的とされたのでしょう.その中で,各科目の内容の真理に触れることができた人は,まがりなりにも4に至ろうとされたものと思います.最後の5は,如何にも日本的な道を究める様な学問スタイルを提示されていますが,これはおそらく教育,学問の最終段階でのみ評価されうるものと思われます.従って,1から4が今大学に在学する学生の多くが持っている大学への期待そのものであると言えます.

 一方で,教員はどう考えているかというと,彼らは既に1から4を経た人たちであり,多くはその目的が,3もしくは4,そして5にあります.まさか2は無いと思いますが,意外にそういう側面があることもあります.ここに,学生と教員の大きな意識の乖離が生まれます.卒業生の多くが回顧して思うのは,自分が3と4の教育,学問から遠かったということです.これを後から達成できるかというと,おそらく難しいと思われます.一旦仕事に就いて,その中で再度勉強するときそれは1と3以外は無く,学問としてはあまりに目的達成型になるからです.教育の論法として目的を達成するために学習する方が早いという意見があります.それはゴールと手法が明確だからです.大学において教育,学問は常に成長しており,そのゴールはその時点のなんらかの最適点に過ぎません.だからこそ,我田引水や,課題の浅さを知らずに講義することは非常に危険なことであることを知らねばならないと思います.

 なぜ京都大学がこれまで教養教育を重視してきたかを問わねばなりません.経済界や学会の圧力は個々の人は別として,集団となると「即戦力」を求め,ゆっくりとした人の成長を今や許さない状況にあります.成果主義の言葉の下に見かけ上の成果(売り上げや論文数)といったことを求めていることの背景は,人を育てる余裕が無いと言うことです.過去には,基礎だけを学習し,その後に目的を持たせて企業や社会で学習させるだけの余裕があったと言えます.ところが今はどうかと言うと,その基礎さえも学習する余裕が無く,単なる人の数でしか見られない卒業生が,使い捨ての扱いを受けることになっています.だからこそ,就職といった低い次元の判断が要求するものは当たり前にスマートにこなして,本質的な大学で最後の教養を高めることが必要なのではないでしょうか? 特定の考え方にしばられない,多くの価値観から教養教育こそが必要なものです.そのためには,大学ではたとえば自分の研究分野の人を増やすとか,自分の名声を上げるとかではなく,人を育てるということのためだけのものとして講義があるべきであると言えます.

**2.知っておいてほしいことなど [#e3806c43]

 職を求め,名声と言った修飾を求める教育が低いものだと言うことはだれもがわかります.真理をもとめることについても,真理が人の社会のための真理かというと必ずしもそうではありません.多くは,自分の名声や虚栄のための真理探究が多い訳です.その結果へ導く教育は,職を維持する,地位を維持する教育になり,同様に低いものとなります.人の人格を高めるまでには至らないわけです.もちろん教える側にとっても最終的にどのような教育が正しいかはわからないことを考えると,真理を追い求める姿,真理を追い求めるための仕組みを作る姿を見せ,真理を追い求める人を育てるための事業(この表現は意味は違いますが,内村鑑三の「後世への最大遺物」の講演の表現)にあるように思います.これが大学としてやらねばならない道楽なのではないかと思います.人を育てることは国が挙げて行わなければならない事業であるにも関わらず,バブル期を経た我国の中堅層には,自らを否定することにつながることから,そのような真面目な生き方を敢えて無視し,さらに表面的な自らが上に立つことだけを正しいとする考え方で律しようとしています.いずれは自分に跳ね返ることをあえて見ぬ振りをして.

 バブル期前の人は無知を恥じていました.それはその結果どのような社会が生まれたかを自らの体験として知っていたからだと思います.しかし,1990年代を終える頃から,無知,未熟,蒙昧を恥じない雰囲気があまりに強くなりました.その動きとゆとり教育の重なりは,経済力を失った日本の現状に取っては唯一の資産であった教育を消耗する結果と成りました.教育は先に述べた目標があるわけですが,その前提は無知や未熟さを恥じて,決して道を失わない様に社会が向かって行く方向があったからです.子供同士のいじめの問題も,その目標が入試を前提とした成績と結果にあるからであることは,否定のしようもありません.それぞれの能力に応じて個人が確立することが可能ならば,お互いに無知,未熟を恥じて,切磋琢磨する様々な方向性があることも認められます.勝ち組,負け組と単純な分け方をするような教育において,恐怖から逃れる方向にしか示されていないことが今の姿であれば,一人を追い落とせば自分が残るという単純な論理だけが残ります.その集団自体が海に向かって突進するネズミと同じであるにも関わらずです.

 大学を4年で終えることは通常ですが,その中でまだ自分が求めなければならないことがあればさらに勉強することはあって良いことです.それが必ずしもその専門の中である必要はありません.自分に足りない部分を知ることができる場が教育であるということを今一度考えてほしいと思います.もちろん特定分野で抜きん出ることは素晴らしいことです.それは最初からそうではないことはその人だけが知っています.他の部分が弱いからそこで抜きん出る様にその人が努力しているだけだからです.あえて自分の弱い所を示す人はいませんから,端から見ると全ての面で優れている様に思えますが,それはほとんどの場合間違っています.これを正しいとして長期の教育を受け提示すると,その結果,一時的に強烈な個性や成果を示せても重厚な研究成果,長い期間の教育を提示することができなくなります.ピークを支えるのはその裾野の幅広さ,広域のスペクトルを持つエネルギーとなります.突然全く異なるスペクトルは立ち上がらないということは誰にでも分かります.ノイズレベルでもその知識があれば,共振することも可能になります.
 大学を4年で終えることは通常ですが,その中でまだ自分が求めなければならないことがあればさらに勉強することはあって良いことです.それが必ずしもその専門の中である必要はありません.自分に足りない部分を知ることができる場が教育であるということを今一度考えてほしいと思います.もちろん特定分野で抜きん出ることは素晴らしいことです.それは最初からそうではないことはその人だけが知っています.他の部分が弱いからそこで抜きん出る様にその人が努力しているだけだからです.あえて自分の弱い所を示す人はいませんから,端から見ると全ての面で優れている様に思えますが,それはほとんどの場合間違っています.これを正しいとして人の教育に用いると,その結果,一時的に強烈な個性や成果を示せても重厚な研究成果,長い期間の方向を示すことができなくなります.ピークを支えるのはその裾野の幅広さ,広域のスペクトルを持つエネルギーとなります.突然全く異なるスペクトルは立ち上がらないということは誰にでも分かります.ノイズレベルでもその知識があれば,共振することも可能になります.

**3.心がけてほしいこと [#yffa4366]

 目指すべきことは自分の知らないこと(無知さ,未熟さ,蒙昧さ)を知ることであり,それを補うことができるように自分のコースを決めるべきであるということです.今完成された技術は30年以上前の基礎研究の成果です.みなさんが30年後にそこに居る保証は全くありません.親の世代はもう十分にその失敗を経験しているのではないでしょうか? 知らないことを武器とすることは恥じるべきことだと思います.ネットワーク・クラウドは外部メモリーにはなりますが,頭の中でそれらの情報を有機的に連携させ,新たな知見を生み出すための土壌にするほど皆さんの頭脳と一体化はしていません.だからこそ,時間を掛けて知らねばならないのです.

 情報検索してレポートを書いても,それはそれで終わりです.誰が確定した知識かも検証せずに鵜呑みすることは学習でも研究でもありません.必要なことはそれを検証する方法を知ることです.方法は,理論,計算,実験でしかありません.世の中全体がその様な状況であると冷静に考えられる人はどれだけいるでしょうか?大学の教員でさえ,世界の研究情報で右往左往しています.二三年毎に入れ替わる研究の流行は言って見ればそこで覇権を取るためのPJにすぎず,お金を集める政策であったり,出版社の生き残りのための策謀であったりします.そんなことに関係ない本質的な研究テーマを時間を掛けて挑むためには,逆に情報を遮断する事は不可欠となっています.人の情報ほど当てにならない物は無く,人の論文程あてにならないものはない・・・それが正直な感想です.私が学生のときは,指導教授からできるだけ人の論文は読むなと指導されました.結論がなったときに始めてその位置づけをするためにサーチする程度で良いと.

**4.あらためて学問へのアプローチ [#l36604d4]

 先日,福沢諭吉の「学問のすすめ」を改めて読む機会がありました.電子書籍が当たり前になった世の中に,青空文庫による多くの人の努力の御蔭で,著作権の切れた古典をフリーに読むことが可能になっています.昨今では町の書店が次々と潰れ,書店で立ち読みをしながら書物を物色することは減っています.一方で,電子書籍がネットワークで購入でき,電子ブックで新刊や売れそうな本が出されています.それらの中で,著作権の切れた古典書がフリーに提供されるようになっていることは注目に値します.セレンディピティーという用語があります.思いがけない失敗が発見に繋がることや,見落とした事から覚醒することなどを指しますが,教育・研究の本質はそういう気づきの能力を養う事ではないでしょうか? 

 書籍は,出版された当初は非常に生々しく,著者の息や欲,優越感といったものが見え隠れします.今研究に必要な技術ではなく,ものの考え方や理解は,それらが時間とともに淘汰されたものからは素直に理解することができます.古典を見出して読む時,間違いが明らかな記述や,古い方法論が示されるときがあります.それらを馬鹿にせずその理解の原点を考えることは重要なことだと思います.自然科学だけではなく社会科学,哲学論においても同様に思います.

 先の「学問のすすめ」を改めて読み,改めて気づいた内容がいくつかあります.例を挙げれば「自由とわがままの界は,他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり」とあります.あらゆる分野に共通の事項ですが,このようなことが書かれていたことに気がつきませんでした.教育で言えば,教育する側,受ける側の自由は自らの中に閉じている間は許されるが,ひとたびそれが人に対するとき妨げとなる可能性があり,それを知らずに自由を主張することが如何に問題かを示していると,今の立場では理解しています.「一科一学も実事を押え,その事につきその物に従い,近く物事の道理を求めて今日の用を達するべきなり.」ともあります.これは人間普通の実学として全ての人がやらねばならないことだと示しています.今の教育が全ての人にこれをきちんと進めることを教えて来たかどうかを改めて考え直しています.

 大学において,研究者は独立することを夢見ます.それは独立して何を求めるかに掛かります.若い研究者は独立して自分の好きな研究をしたい・・・となります.それは独立していない状況が生む夢ですが.はたしてそこに教育という側面があるかどうかを今一度考え直してほしいと思います.自分がやりたい研究は確かに高いレベルにあるかもしれませんが,それをそのまま教育に資することはできません.あまりにも個人のどろどろとした欲が含まれるからです.自らを研究も含めて客観視し,また普遍化したものでなければ教育には資すことができないことを先の言葉は含んでいると理解できます.

 電子書籍,ジャーナルのみで研究を進めることは可能です.ただし,特定の目的を持った場合に限ると思います.大学,大学院の期間は人生で唯一目的の無い読書ができる期間です.また映像や旅,人との交わりの中で自分を位置づけることができる時間です.この時間を大切にしてもらいたいと思います.その中で,改めて古典的な著作をゆっくり読むこと,原典をきちんと読むこと,そして何ができていないかを知ること,それが最も必要なことだと思います.

 年をとって来て始めて気がつく事は時間の大切さです.それは時間を仕事で埋める,研究で埋める事ではなく,考えるための時間です.何を考えたら良いかわからないというのではなく,考えて論理の感性を磨く事ではないかと思います.そのために必要な事は,多くの古典を読み,現象を自ら体験し,無目的に考える時間が必要なのだと思います.それが学問へのアプローチとなります.

**5.価値を作り出すために [#g05f91e8]

 時代が動く中で,古い物として置き去りにされたものを見出すことから新しい世界が広がります.なぜ置き去りにされたか,どうして今適用できないか.良い思考の訓練となることは誰しも分かっています.常識にこり固まった世界にいるとパターン化された生き方が可能になり,普遍性の無い現象に対して,経験則,公式という魔物が現れます.あるいは,権威という人があたかも摂理の様にその場の状況を説明します.これらの問題を見出せる力は,教育を受けた者が人の言葉にきちんと耳を傾け,自分の理解で斟酌する中で育まれます.

 日本の電気電子産業の凋落は何にあるかを考える必要があります.誰が見ても個性が無く,挑戦的な魅力も無く,価格が高く(あるいは同じ値段),そしてその国の文化に資する意識の無いものは淘汰されるのは当然です.あまりにも日本の国内市場の有力企業の価値観,すなわちその会社が収益を得る構造の維持を普遍性があるものと勘違いする,会社内の人の思考が画一化した結果です.だれもしないから横並びで同じ事を始めた結果,企業数と言う多様性はあっても技術の目的の単一化を達成した瞬間に,日本の多くの企業には多様性が失われて,提示する世界が失われた事をもう一度考えるべきです.誰もが新しい物を求めていることと自分の満足が人の満足と勘違いしていることを忘れています.多くの会社での講演で,若い技術者が新しいことをしようとして,そんなことをして良いのかをまず考えると聞きました.また,まず先の事例を捜し,それらを使うということを言われました.このような会社がパラダイムシフトを社員に要求したところで,自己矛盾でしかありません.ものの本質を分からないかけ声は意味がありません.後を追いかけても先を行く者はすぐに90度方向を変えます.それをフォローする事の難しさは過去の日本の企業が追い越した時点でできなくなった硬直の結果です.その時点でバブルを迎えたことが全ての結論だと思います.前に出られないことで磨り減る姿は同じ事を繰り返す意外に能のない姿でしかありません.電気電子の将来は電気電子の分野内だけにあるわけではないことを,まず最初に分かっているのが我々でなければなりません.

 一方,日本の強さはアナログでした.感性であり,美意識としては完成度の高いものです.しかしその技術が汎用品において普遍化し世界中に広げるという意味では無理があるということに気がつかなかったと思います.ディジタル化は本当は日本が一番進めても良かった分野です.それを拒んで来た結果として,目的が高付加価値による価格の維持(当時多くの新聞や識者が唱えていたと思います),目的の画一化による単調さが生まれました.学会でもしかりで,職人の様な技術者がアナログの効率を98.5%から98.6%にしたと喜んで話し,それが何を生み出すかと言う世界観を失っていることを何度も経験しました.新しい試みをした若い研究者に,そんなものは意味が無いと言い切って自らの立場を守る人を何度も見ました.国内の研究者が育てた結果を否定して,同じ結果を海外から輸入するという研究者育成という意味では自傷行為が横行しました.それらがどういう結果を引き起こしたかを言えば,前者の会社は大きな赤字を出し見る影も有りません.後者の分野は既にその役割を終え,新しい技術を提示できない学会の分野となっています.

 答えの無いテーマに,一つ一つボトムアップにデバイス,回路,システムを作り,そこに生まれて来た新しい現象の価値を見出すことこそが日本がやることだと思います.常識が無いと言われたら喜んで勉強し,一つでも可能性があれば人の意見を素直に聴いて新たなフェーズにアップすることが,研究者がすべきことです.価値は自ら見出して行かなければ人には見出してもらえません.昔の様に,良いものは黙っていても見出される事はありません.自らのコンセプトを価値として示し,我々が周辺への教養も含めて作り上げていることが必要な事だと思います.

 個人の意見を示すなら,人が提示したモデルによる解析は所詮リアリティの無い解析です.人の褌で相撲を取るという戒めと替わりはありません.今必要なのはそういう批評家を育てる事ではなく,自らデザインができる人を育てることです.そのために必要なことは,原典を学習し,そのからモデル化のプロセスを検証し,その上で新しいデザインをする能力を高めることだと思います.

**6.一緒に目指せるもの [#me06ffc8]

 自らが独創性を示すためのフィールドを捜すと同時に,自らの弱い所を埋め,裾野を広げてボトムアップに世界を変えて行く練習の場として研究室を選んで下さい.自分のペースで勉強すると同時に,目的の課題への勉強の仕方を練習することが研究室の運営方法です.それらの中で,未だに誰も答えに辿り着いていない物理,技術の開発をおこなう経験を積む場を提示しています.

 教員として同じ事を続けている訳ではありません.今の研究課題は,過去に指導者が考え準備して来たものであり,必ずしもこれからのものではありません.自らが新しいことを試みる中で,みなさんと一緒に新しい分野を創成して行きたいと思っています.

 興味のある人は是非とも一度話を聞きに来て下さい.


* 過去の記載内容 [#p46576f3]

-2012年版は[[こちら:http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/ja/index.php?Research2012]]
-東日本大地震後の関連メッセージは[[こちら :http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/ja/index.php?message2011-2]]
-2011年版は[[こちら:http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/ja/index.php?Research2011]]
-2010年版は[[こちら:http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/ja/index.php?Research2010]]
-2009年版は[[こちら:http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/ja/index.php?Research2009]]
-2008年版は[[こちら:http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/ja/index.php?Research2008]]
-2007年第3版は[[こちら:http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/ja/index.php?Research2007-3]]
-2007年第2版は[[こちら:http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/ja/index.php?Research2007-2]]
-2007年当初版は[[こちら:http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/ja/index.php?Research2007]]
-2006年版は[[こちら:http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/hikihara/lab-exp-06-01.html]]
-2005年版は[[こちら:http://www-lab23.kuee.kyoto-u.ac.jp/hikihara/lab-exp-05-01.html]]

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