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技術の発展には必然性がある?(暫定版)

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原子力災害の対策にロボットを開発したが廃棄した・・・という事実が紹介されています.が,平和ぼけと予算消化が命の官僚主義の成せる結果ではないかと思います.国の補助金で製作されたものは,助成期間が過ぎると引き継ぐことが出来ず,廃棄すなわち取り壊すことが決まりです.それは資産になってはいけないし,売却益を得てはいけないからです.大学もしくは国研だけが引き続き使用ができます.それが国民の税金をつぎ込んだということで,個人の有利になってはいけないという最低限 (?) のルールについて守っていますが,税金が無駄に消えているということへの何の説明にもなっていません.そういう論理のすり替えが非常にたくさんあります.研究は国民に資するものですが,その結果はいつ開花するかはわからないということが理解されていません.その余裕が科学,技術の懐の広さや深さを与え,いざというときにあらゆる可能性を検証する有機的な考え方を生み出すものだということは誰でも分かります.そういういざという時に応えるために準備させるのが税金の投資なのではないかと思います.しかし,市場経済の論理を研究に持ち込むという蛮行がまかり通る様になり,即効性と結果が要求され,望ましい結果を求めてはいないにしても,基礎研究に対して都合が悪い結果は出さないということがなされます.研究成果の全ての条件と結果を提示して,失敗を大きな成果として,後進のために正直に報告する.これが科学で基本です.それが発展につながるのです.その下住みの研究を無くしてどんな研究開発をしても,それはやってみましたということにしかなりません.開発した装置を他の検証を得ないうちに解体して処分する.こんな結果を真面目に信じることができるでしょうか?「捏造」ぎりぎりの行為です.論文になれば良い? いえ,なったら一生その責任を背負わないといけないのです.その答えがいつでも再現できなければならないということの責任は非常に重いものです.ましてや国民の血税で研究をさせて頂く我々に取って,評価を受ける義務の遂行は最低限まもらなければならないことです.

国による大学の研究費は,予算の単年度消化ルールのコントロール下にあります.大学が受ける助成金は予算の執行は毎年7月から9月に行われ,2月末には研究成果を示さなければならないことを繰り返します.その結果,双方の予定調和として既に結果が明らかなものを申請し,成果がでないうちに過去の成果で報告し,その達成を競わねばならない.こんなことを繰り返すから税金をつぎ込んでも成果が出ないのです.費用対効果という意味では,お金をつぎ込まない挑戦的な研究を自前で実施したとき程成果が出てくることになります.多くは,助成金が得られる様になった時点で成果は出終わっています.こんなことなら,過去の成果への補填として助成金を充当すれば良いのではないかと思うくらいです.これが技術を推進することになるとは思えません.政府の競争的資金と言いますが,ほとんどは募集時にほとんどの応募者が決められていて,それ以外は当て馬です.当て馬の申請を落とす事が審査の本質であることは必然です.このうようなことは我が国だけではありません.要するに研究はその時々の政治,流行に従って助成金によって誘導されていると言えます.結局は既得権益なのです.しかし,科学,技術の発展において予算の有無は,必然的な発展において雑音にすぎません.その時代に数々のノイズ的な外力があったとしても,必然的な知見は,世界で同時多発的に現れるということです.それに気がつくかつかないで結果的に市場を形成するか否かにつながります.予算を継続的に,カンフル剤の様に注入しても市場等は形成できません.必然性が無いからです.だからこそ,研究に市場メカニズムを持ち込むことなど元々言い訳に過ぎないという事です.

技術の発展には必然性があるかという問いがあったら,あるというのが著者の回答です.精度を上げる研究が必要な時もあります.そして,異なる分野が再度融合する時も有ります.それを融合させるのは人ですが,その潮が満ちた様に知見が高まる時があります.それは個人に依存もしますが,今回の震災の様な外的なトリガによる場合もあります.その中で,何が本物かということを見出せる能力が必要です.机上の空論は権威を維持するために理論武装します.そのことが,障壁になることもあります.一方で客観的に応用や具体化まで見通していけなければその潮の流れからは取り残されます.次のタイミングはないでしょう.それらも,結局最後に流れが出来なかった時に「あ,障壁を越えるだけの成熟が無かったのだ」と気がつくものです.一方,教育も面白いものです.なぜあのときあの内容を学習することになったのかと思う程,今の仕事の本質を突いた刺激を受けた事を後で気がつくことがあります.それらが一人の中で結晶化するというのは,その人に取って必然です.ですから,発展させる技術を引き出す人は,その生涯で必然として辿り着き発展させるのだろうと思います.他の人にはできないのは必然がないからです.教えた側が今の結実を知っていた訳でもありません.

総体として,技術の発展は必然性があります.そのときまでの多くの失敗のデータ,検討のデータ,机上の空論と捨てられたもの,過去には技術が伴わず捨てられたもの,それらがあってこそ次の発展につながることを,科学技術に頼ろうとするものは知らなければなりません.成功はその蓄積の中から選ばれた人が拾い上げて来るものです.どんな些細な発展にも必然性があります.だから,良い結果も悪い結果もきちんと目の前に出して評価して次に行く行動を我々科学技術に携わるものが行わなければならないのだと言えます.それを止めたとき必然性は生まれません.

当たり前のことしか書いていません.しかし今の世の中を見て下さい.どうなっているでしょうか? 何かを守ろうとして,何かを決定して実施し,それが多くの人の命と引き換えになった過程があったとしたら,絶対に結果と言ってはいけないものです.この結果を導かない様に責任を持たされ,地位や利益を得ることが許されたのだと思います.人の営みとして既に走り出したものを止める事はほとんど不可能です.しかしそのことが結果を正当化することはありません.いまできることは,反対の意見を消した意見の評価,そしてその方法論,さらには決定者の責任について,歴史の経験を見返しながらどうすることが正義かを考え抜かねばなりません.人に責任を問うのではなく,そのプロセスを問わねばなりません.これが必然となって新しいレベルに社会や技術を持ち上げることが今唯一意義がある行為であり,その結果新しい技術を生むのであれば,過去の成果によって繁栄を享受することを許される唯一の道であろうと思います.

技術は社会が必然的に生み出す道具なのでしょう.それが社会に取って,良いものでも悪いものでも.そこに今は科学の論理による正当性がなければならないというのが重要なポイントです.

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Last-modified: 2020-09-04 (金) 16:47:28 (1329d)